2005年02月19日

不可能性の問題(1996)試論 1

不可能性の問題(1996)試論

1. 有難迷惑な存在論と出来損ないの倫理学のみにくい教え

 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

 「有難迷惑論」は、「存在/無」の述語的二値論理に呪縛されており、「出来損ない論」は「自己/他者」の主語的二値論理に呪縛されている。それがもたらす思想的弊害は非常に大きいと言わなければならない。とくに「主体の主体性の確立」という私たちの生存にかかわるとても重要な問題が破壊され損傷されてしまうのである。

 「真」を振りかざす「存在論」は、主体の主体性を「自己同一性」と混同し、それを結局は「存在困難性(有難性)」という「混迷と矛盾(迷惑性)」のうちに見失ってしまう。これが有難迷惑的ということである(存在困難昏迷性)。この例として、わたしは特に日本型ハイデガー主義を糾弾する。

 「善」を振りかざす「倫理学」は、主体の主体性を「自己関係性」と混同し、それを結局は「自己出来損傷性」(自虐的感傷性)という「自縄自縛」(自己繋縛)のうちに閉塞させてしまう。これが出来損ない的ということである(不出来自壊性)。この例として、わたしは特に日本型レヴィナス主義を糾弾する。

 ここに二つのタイプの不可能性が捏造されていることに注意を喚起したい。「存在困難性」と「自己出来損傷性」がそれである。これはいずれにせよ、感傷主義でありペシミズムである。
 このような不可能性をわたしはフランツ・カフカに敬意を表しつつその名に因んで「可不可性」或いは「過負荷性」と呼びたい。それは、「不可なる可し」という「過負荷」な抑圧によって、主体の主体性の確立を結局陰険に妨害するだけの制限主義的な態度である。ここに「可不可性」或いは「過負荷性」というのは、要するに「無能性」のことである。

 「存在論」にせよ「倫理学」にせよ、主体の主体性を無能性の烙印を押された去勢されたものにしかしない。いずれにしても主体は「空しいもの」「虚ろなもの」にされてしまうだけである。
 するとそこに常につけこむのは「宗教」である。私はこの「宗教」を出口王仁三郎に敬意を表しつつ彼の言い方を借りて「醜教」と呼びたい。それは実にみにくい教えであるからだ。

 私はこれに対して美しい学としての「美学」を提唱したい。それは「不可能性の美学」であり、「無能性の醜教」に敵対するものである。

 「真」を振りかざす「存在論」、「善」を振りかざす「倫理学」、このいずれの考え方も病んでいる。病んだ思考からは、病んで瀕死の重体となった主体性、或いは魂の抜け殻の全く空しい主体性しか構想されるわけがない。

 しかし、主体の主体性の確立の問題は、「自己同一性」(同一性・存在)の問題でもなければ、「自己関係性」(関係性・倫理)の問題でもない。それはむしろ「自己表現性」(様相・態度)の問題において見い出されねばならない。すなわち、「真」でもなく「善」でもなく、なによりもまず「美」の問題としてそれは考察されなければならない。


 
posted by NoVALIS666 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 不可能性の問題1996版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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