2005年02月19日

不可能性の問題(1996)試論 4

4.実体と様相の美学

 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。だが論述においては彼は不可能性から出発している。

 不可能性の否定によって可能性が生まれる。可能性は生まれ落ちた一点から次第に成長して行く。そうして可能性増大の極限は必然性と一致する。次に必然性の否定が偶然性を産む。誕生の一点を起始として偶然性は次第に増加する。そうして偶然性増大の極限は不可能性と一致する。ここに可能性と偶然性の対立的関係、および偶然性と不可能性との近接関係が明かにされる。可能性が増大するに従って偶然性は減少し、偶然性が増大するに従って可能性は減少する。可能性増大の極は偶然性減少の極と一致する。それがすなわち必然性である。また偶然性増大の極は可能性減少の極と一致する。それが不可能性である。(ibid.)


 しかし、この循環的生成論とは異なる様相の生成論を私は考えている。

 九鬼の陰陽循環的様相変換論は四様相が季節の循環のようにグルグル入れ替わる対称的な回転理論である。
 そして、その運動の原動力となるのは「否定」である。

 だが、私は寧ろ元気の陰陽二気への根源的分裂に発する起点のある非対称的な様相の段階生成論を考えたい。
 九鬼の四様相循環論は要するに四様相のすべてが初めから与えられてしまっていることを前提している。それが「否定」に媒介される円環運動になってしまっているのは、分化しきった太極という一者の完成した「存在」の内部に四様相が取り込まれて、その内的自己循環に馴致化され回路付けられてしまっているからである。

 通常、論理学は真か偽かの二値論理である。これは存在か無か、肯定か否定かと言い換えても同じことである。
 しかし様相論理はある命題が真か偽か、存在するかしないかを問うのではなく、それとは別問題にそれがどのような様相においてあるか、必然的か可能的か偶然的か不可能的かを問う四値論理である。

 私はこの別問題であることをより極端に徹底させ、存在と様相を切り離す。そこで存在なき様相を純粋に考察しようとする場合、九鬼のように「存在」と「否定」という二値論理的な説明原理を持ち込んで、それに基づいて四様相の概念を解明することは許されない。

 それは陰と陽であっても同じである。存在と無、肯定と否定、陽と陰、1と0は、いずれ変わらぬ二値論理でしかありえない。そもそもコンピュータの原案者ライプニッツがその基本観念を発想したのは中国の易の思想からであった。陰陽二気の易の哲学こそ世界最古のコンピュータ思想(二値的記号論理学)なのである。

 九鬼の太極図形における陰(可能性)陽(偶然性)の二元の巴は、可能性が〈無〉、偶然性が〈存在〉(存在者)に当たるといえる。

 偶然性は九鬼によれば「無の可能性」=「存在の偶然性」であり、可能性は「存在の可能性」=「無の偶然性」である。
 そして、この両者は一方が他方を持ちつ凭れつに支え合う相関関係にあるのだ。
 しかし、これに原分割を与えているのは老陽−老陰にあたる陰陽の巴の境界面(不可能性−必然性)の亀裂である。この分裂線はそれ自体、存在と無の二値論理に還元不能な様相としての様相の自立性としてある。

 私が根本様相としての不可能性と呼ぶのはこの根源的な分裂線のことである。九鬼はそれをノヴァーリスの表現に則って「原始偶然」と呼ぶが、私はそれを「根源的不可能性の美」と呼ぶのである。

 だが、忘れてはいけないのは、九鬼の必然性批判は実際には戦略的な擬態であるに過ぎないのだということである。
 彼が「偶然性」として言わんとしていたのは「存在」にも「無」にも還元できない形而上の「美」のことである。
 その点において私はこの素晴らしい哲学者・九鬼周造に心から共感する。
 形而上学は「様相を呈する学」としての美学でなければならない。それを妨害する存在論の「であるはずだ」や倫理学の「ねばならない」に対して、それとは違った美しい必然性を、即ち運命としての必然性をつきつけてやりたかっただけなのである。

 これは九鬼が批判しているオスカー・ベッカーについても言える。彼はハイデガーの高弟の一人だが、花の「美」を侮蔑するヘーゲルやハイデガーの「無」や「存在論的差異」に対して、美しい「実体」の観念を守らねばならないという立場からプラトン的イデアにおける「パラ存在論的無差異」の思想を展開している。
 この必然性の美学者は「存在(実存)」という「価値」に対して「実体」という「価値」を復活させることこそが必要なのだと説いている。

 プラトン的イデアは存在論的差異に対立するものである。いわゆる「現実性」に関するイデアの問題点は、その概念構成の全体からして最深部で存在の「鋭さ」、すなわち事実的なものの固さを、計算に入れることができないところにある。他の面では、この「現実性」から、またその最奥の根拠である「存在」からしては、それは捕らえられず、また反駁もできない。いかに強力ではあっても、存在がありのままの実体を害することは決してない。無は存在に対して何もなしえないからであり、その永遠の処女性には触れえない。それは現れることで喜びを与え、またその現れの退潮は、「地上の美の喪失」ではあってもそれ自体には影響しない。それは、永遠に回帰可能な可能性に留まる。その中には、存在の灰白色の堅苦しさとは対照的に、実体の与える慰めがある。かくして我々は、これと密接に関係する問いかけをもって結びたい。人間は、「存在の牧人」であるより前に、実体の番人であるのではなかろうか。
(オスカー・ベッカー「プラトンのイデアと存在論的差異1963
『ピュタゴラスの現代性』中村清訳 工作舎1992)


  ベッカーの言わんとするところは非常に分かりやすい。「実体」の概念は存在論的なものであるというよりも寧ろ美学的なものなのである。
 だが、それは何もプラトン的イデアにおいてそうだというよりも、それを批判したアリストテレスにおいてそうだったのではないかと私は考える。

 アリストテレスにとって「実体」は「個物」において見い出されたそのありのままの美しさであったのではないか。彼はその「美」を「神」と呼んでいた。私はアリストテレスを可能性の形而上学者として批判するつもりだが、しかし、それはアリストテレスが「実体=個物」に見いだした「美しい神」を再発見したいからである。

 近年、ハイデガー批判というと何故か専らレヴィナスの倫理主義ばかりが取沙汰されやすい。
 しかし、私の考えではレヴィナス流の倫理主義は日本人には受け易いからこそ却って有害なものに転化してしまいかねないという危惧をもっている。

 「存在」という価値が権力であるといって「他者」という価値に乗り換えても何も解決しない。それどころか日本にはレヴィナスの「他者」以前に先在する別の「他者」がいるのである。この別の「他者」を退治しない限り、レヴィナスの「他者」は空念仏にされてしまうだけだ。

 むしろ我々は九鬼やベッカーのような「様相」の美学者(彼らのハイデガー批判の方が実は私たちのためになる)を評価するべきであり、「実体」の思想を復活させる必要がある。「実体」のない「他者」の話などお断りである。

 この「実体」のない「他者」は「別人」である。

 私はレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」を〈顔〉というよりも「真面目」・「表情」・「様相」という語で考え直したい。
 それは倫理学的な概念というよりは美学的な概念である。

 このように言い直すのは「他者」と「別人」を区別するために必要な措置である。「別人」は「不面目」で「無表情」で「無様」である。それは冷笑的で厭味なものである。

 日本の「別人」においては、レヴィナスの言う〈イリヤ〉はそのような〈顔〉をもち、まさに「他者」において不断に露出しているのだ。

 
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不可能性の問題(1996)試論 3

3.自同律の考究

 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。

 自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
 自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。

 すなわち同一性というのは、〈自己は実体として存在する〉(平たくいえば〈私は実体である〉、また別の仕方でいえば〈自己は実体を存在する〉)という観念的で内的な経験なのである。
 〈自己〉の観念は同一性の主語にして主体である。同一性から直接的に推論される同一者、または自同律から直接的に推論される自同者の観念を捉えなおしたときに、それは〈自己〉と呼ばれるのだといってよい。

 しかし、このような〈自己〉の観念は、例えば〈この私〉というような具体的実存的な事実存在に一次的には起源していない。
 〈自己〉(「私」一般)と〈この私〉は異なる。この差異は極めて気づきにくいが、確かにそれはある。それは例えば柄谷行人が『探究II』において問題にしている〈単独性〉或いは〈この性〉の問題に触れている。

私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。
柄谷行人『探究II』「第一章 単独性と特殊性」講談社学術文庫p19


 ところで、〈この私〉は偶然的存在である。「真理」と明証的に表裏一体となっている〈自己〉(同一者)と〈この私〉が異なるとすれば、偶然的存在である〈この私〉の真理性はどうなってしまうのか?

 実は、九鬼が「必然性」を批判するのは、それが彼にとって「同一性」及び「一者」(to hen )の様相を意味したからである。これに対して彼が「偶然性」の様相を重視するのは、彼がそこにおいて、同一性には還元不可能な、一者と他者の二元的邂逅を見出してしていたからに他ならない。

偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう。
九鬼周造『偶然性の問題』二・一五 『九鬼周造全集第二巻』岩波書店p120


 しかし、私は「必然性」を同一性の様相であるとは考えない。むしろそのように考えることこそ、不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。アリストテレスの基本的な表現法では「必然性」は〈他のようではありえない〉という仕方で実は〈他〉を含んでいる。「必然性」は同一性というよりはむしろ「非他性」である。
 つまり、まさに必然性こそが「一者と他者の二元的な邂逅の様相」なのである。しかもそれは決して同一性に内面化することのできないような他者との邂逅(=分裂)の様相なのである。同一性は必然性に突き放されることによって生じる。しかし、それは同一性が必然的であるということではない。

 むしろ逆である。同一性は確かにそれによって例えば自同律というような仕方で己れを必然化し第一原理化するだろう。そこからまた「存在」の観念が起源しさえするだろう。ヌースがアナンケを説き伏せるというあのいやらしい詐術がそこで行われてしまうのだ。しかし、同一性は決して必然性(非他性、他の不可能性という意味においての)を内面化などなしえていない。

 九鬼は偶然性を遭遇性であると同時に偶数性であるとしている。

偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。
九鬼周造『偶然性の問題』二・一五『九鬼周造全集第二巻』岩波書店 p120


 そして、その偶数性・遭遇性の意味は、「存在と無」または「存在と非在」の二者の根源的二元論であり、この二者の遭遇のことである。そもそも『偶然性の問題』の開巻冒頭で九鬼は次のように宣言している。

 偶然性とは必然性の否定である、必然性とは必ず然か有ることを意味する。すなわち、存在が何等かの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことの出来る存在である。換言すれば偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無の接触相に介在する極限的存在である。存在が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。偶然性にあって、存在は無に直面している。然るに、存在を越えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが形而上学の核心的意味である。
九鬼周造『偶然性の問題』序説『九鬼周造全集第二巻』岩波書店 p9

 しかし、この九鬼の立場を徹底すれば、必然性においてこそ存在と非在の双方に還元不可能な分裂の様相を観測しなければおかしい。必然性こそが九鬼の言うような意味での真に根本的な形而上学的偶然性なのだ。必然性は自己のうちに根拠などもっていない。自己の概念は存在と同様に自同律に根付いている。われわれの思考の習性は自同律を安易に必然的な思考の第一原理であると考えてしまう。だが、そこにはそのように考えさせる外的な強制力が働いている。この強制力が自同律を必然化し、思考を自己や存在から脱出不可能な様態に呪縛している。

 必然性は他者の不可能性としての非他性である。非他性は同一性と同じではない。また、同一性に根拠を与えるものでもありえない。私は同一性と必然性を切断する。それは「存在なき純粋様相」の概念を凝視し考察しようとすることと別ではない。

 わたしの考えでは、自同律は必然的ではなく、偶然的なものであって、思考の真の第一原理であるとはいえないものである。むしろ必然的なのは矛盾律の方である。生成順序として、まず矛盾律があり、排中律がある。自同律はその後にやっとこの二つに導かれて生成するものでしかない。
 同様に「自己」や「存在」の観念もこの自同律の思想から生み出された効果でしかありえないので、何ら必然的なものであるとはいえない。

 われわれを自同律や自己や存在から抜け出せなくしている黒幕は実は「可能性」である。ベルグソンは目は物を見るための器官であると同時に見ることの障害でもあるということを言っているが、「可能性」という様相はそれとちょうど同じ機能を果たしている。

 われわれは「可能性の内」(in possibility)に思考の動く幅を前もって制限的に規定され、いわば前置=前提(preposition)され、そこに捕え込まれてしまっている。そこでこの「可能性の内」(in possibility)――むしろ「内可能性」(in-possibility)は可能性からの脱出不可能性という意味において、駄洒落でも何でもなく、一種の逆説的な意味における不可能性(impossibility)として反転的に機能してしまう。
  しかし、この意味における可能性からの脱出不可能性は、可能性という様相の奇妙な否定的裏面であって、私が「不可能性そのもの」すなわち「不可能性自体」として考察しようとしている、可能性によって否定されることによって「不可能性」と名づけられてしまっている、恐らく本来はむしろ全く無名の様相とは別である。
 また、この可能性からの脱出不可能性は必然的な様相を確かに呈するものではあるが、必然性そのものともやはり別のものである。

 
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不可能性の問題(1996)試論 2

2.可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」

 不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in- possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。

 しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。
 現代の様相論理学は不可能性(ありえない)と否定性(ない)の区別の上に成り立っている。それは「様相」の問題と「存在」の問題とを切り離すことと別ではない。
 したがって、「存在なき純粋様相」を考えることが出来るのである。このことを言い換えるならば、現代の様相論理学は「存在なき純粋様相」の形而上学を逆に要請しており、それなくしては成立しえなかったのだということができる。

 九鬼周造はそのことを逆手にとって偶然性を根本様相とする偶然性の形而上学を創造しようとした哲学者である。彼は『偶然性の問題』になかで実際に偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。それは九鬼の生き方の美学(趣味)から来る、「必然性の形而上学」に対する感性的な反発からである。九鬼の「偶然性の形而上学」は「偶然性の美学」に根差している。

 しかし、私はこの九鬼の様相性の解釈にも偶然論にも実は賛成できない。
 
 様相論においては、むしろ私は不可能性を根本様相として見る方が正しいと考えている。だが、それは『偶然性の問題』になかで九鬼に批判されている現代記号様相論理学の草分け的存在C・I・ルイスとは恐らく全く違った動機においてそう考えるのである。ルイスは不可能性を根本様相として考えている。私はルイスの見解を支持したい。

 ルイスの様相論では単なる否定(negation)と不可能性(impossibility)が区別されている。それはいわば無を存在論的否定性と様相論的否定性に区別することである。他の様相性を根本様相と考える立場では、この区別は出てこない。
 不可能性と否定性の区別は抹消され、不可能性は否定性に還元されてしまう。それは言い換えるなら、様相の次元のそれ自体としての自立性を、つまり様相論それ自体を存在論に還元してしまうことである。それは不可能性を無能力化=不能化(impotentialize)することである。不可能性を不能化することは、様相論を潜勢化することでも現勢化することでも完成させること(完全に実現すること)でもなくて、単にそれを去勢すること、骨抜きにしてしまうことでしかない。

 ルイスは、否定性には還元しえない不可能性、そしてまた、可能性の否定としての非可能性(あるいは否可能性)ではないような不可能性、すなわち、否定性にも可能性にも還元不可能な、それ自体としての不可能性、いわば〈不可能性自体〉ともいうべきものを発見している。

 しかし、ルイスが不可能性において本当に発見したのは様相性そのものである。不可能性とは様相性それ自体のことであり、単に四様相性(全体)の四分の一の様相(部分・構成要素・離接肢)であるだけではなくて、その四様相性全体のもつ有機的で相互否定的規定関係(構造・形式・枠組)なのである。そのことこそが様相論理学において重要なのであって、何が根本様相であるかは実はどうでもいいことなのである。◇だろうと□だろうと好きな記号を様相性を表す様相記号とし、それに可能性だろうと必然性だろうと偶然性だろうと不可能性だろうと四つ組の中から任意に選んだ名前をつけてやれば、お気に入りの様相論理学が出来上がるだけの話なのである。つまり、何とでも好きにすればいいのだ!

 例えば、様相性の記号を◆とし、否定を〜、命題をp表す。◆には、可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれを代入してもよい。
 すると、

  ◆p 
 〜◆p 
  ◆〜p
 〜◆〜p


 の四つの様相式が出来上がり、それぞれが可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれかを意味する。この時点では、どれがどれでであるのかはまだ決定していない。事態は流動的である。
 しかし、ここでどれか一つを固定すれば、残りは自動的にその名が決まる。この固定化をもたらす固定性は、四様相性にとって外部的・超越的である。しかし、それは四様相性を決定的に創造する。決定不能のものが決定される。それは裏返せばその瞬間、どれか一つを特権的様相とする「神の創造」が行われるということだ。神が創造するというより、それは神が創造される瞬間なのである。

 そのとき、「排除と選別」が決定的に起こる。柄谷行人風に(すなわちクリプキ&マルクス風に)言うなら「暗闇の中での命懸けの跳躍」が起こるのである。このとき、四様相性は、その四人のうちの誰か一人に代表され、そいつに永遠に仕切られる羽目になる。

 しかし、問題は、それで他のようで有り得る可能性(すなわち偶然性)を実は排除できないということなのだ。そして、むしろここにこそ本当の意味での還元不可能な「偶然性の問題」が見出されねばならないのである。

 さて、マラルメは言っている――


骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき。
 ステファヌ・マラルメ 『骰子一擲』 秋山澄夫訳思潮社 1991年

* * *

 ところで、「◆p」・「〜◆p」・「◆〜p」・「〜◆〜p」の四様相性は、「p」「〜p」の双対で表される二項対立的で二値的な「存在/無」(或いは「真/偽」)の二様相性とは別個の水準にあるものと考えられる。二項対立的=二値的な二様相性は四様相性とは次元を異にしている。二様相性の二値論理空間からは様相性◆それ自体が実は追放(第三項排除)されてしまっている。その枠組のなかでは四様相性について考えることがそもそも全く不可能なのである。

 これを不可能にしているのは「否定」である。

 否定は、様相を排除し否定し追放している。いわば二つの次元を切断している。しかし、そのことによって否定は自分自身をも双面に切断している。単なる否定でしかない無と、否定の様相として何かそれとは違った顔をした無とに引き裂かれている。否定のもつ単に「無い」というのとは別の意味、それとは違う位相で違った意味をもってしまうということ、否定にはいつもその他立ないしは異定立(Heterothesis)の作用が伴ってしまうということ、そして、否定はその己れ自身であるところの他者を決して消し去ることが出来ないということ、それこそが問題なのだ。

 単に何が根本様相の「真」の名称であるかが問題なのではない。問題は、四様相性がそのような「真/偽」をもはや問えないような次元に成り立ってしまうということにある。「真/偽」とは言うまでもなく「存在/無」の二元論にパラレルなものであり、したがって既にそれ自体が二値的な、すなわち二項対立の呪縛に囚われた「否定」的発想でしかない。
 「真か偽か」或いは「存在か無か」をもはや問えないような次元に、そんなことには全く関わりなく四様相性の四位一体構造は成立している。このようなものが純粋に構造的に成り立ってしまっているということ、このような存在から全く独立した純粋様相空間としかいえないような次元に、実に不可思議に浮いている純粋に抽象的な四様相性の四位一体構造の成立と構成をわれわれが考えざるを得ないということこそが問題なのだ。

 そして、更に一層踏み込んで言うなら、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四様相性と存在・無の二様相性とは、その「様相」がまるで違っているということこそ、もっと重要な問題なのである。四様相性と二様相性は同一平面上に並記することはできない。これらは互いに異次元にあるのであって、九鬼がルイス、そしてルイスを批判して必然性を根本様相としたオスカー・ベッカーと同様の愚を犯して、四様相性と二様相性を単純加算して合計六様相にしてしまうことはできないのである(むしろ両者の位相差は交錯的なのだから乗法的にみて、八様相を考えるべきだろう。)それは否定性と不可能性がまるで違った意味をもった否定性だからである。

 九鬼はこのことの意味を真には理解していないように見える。単に皮相に表層的に瑣末的に何が根本様相であるかの名辞(呼称)にこだわり、誰が(どの様相概念が)一等賞(根本様相)であるかの莫迦気た論争を行っているに過ぎない。

 私がルイスを支持したいのは、単に二項対立的に偶然性を必然性の否定概念として考えている九鬼よりも、否定自体を単なる否定と不可能性の二相に切断することによって様相空間そのものを創造したルイスの方が、様相性の何たるかを恐らくよく理解していたのではないかと思われるからである。このような犀利さは、必然性などを持ち出して様相論を分かりやすく改良してしまったオスカー・ベッカーにも、偶然性などを持ち出して様相論を親しみやすくしてしまった九鬼にも見ることができない。彼らは単に様相を自明視ししてしまっているだけである。すなわち、そもそも様相とは何かという問いの場処を塞いでしまっているだけなのだ。

 何が根本様相であるかというような言い争いは実際には餓鬼の喧嘩と大して変わるものではない。九鬼はそのような意味ではそこで非常に愚かしいことをわめいているだけなのである。どうしても偶然性が根本様相でなければならないいわれはどこにもない。何だっていいのである。彼は「偶然性の形而上学」があったていいじゃないかという以上のことは何も言えない。勿論その通りなのだ。あったていい。しかし、それは同時に「可能性の形而上学」「不可能性の形而上学」「必然性の形而上学」をも同時に肯定することでなければおかしい。

 しかし、九鬼は実はそれほどひどい莫迦ではないのであって、実のところは、ことによると、そのことはよくよく承知した上で敢えて「偶然性の問題」を主張したのではないかとも思われる節がある。それは九鬼の目には西欧形而上学がもっぱら「必然性の形而上学」によって呪縛された思考であると映ったからである。
 だが、この言い方は本当は正確ではない。彼が反発していたのは「必然性」に対してではない。むしろ「存在」や「自己同一性」という「価値」の自明視に対してである。


 
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不可能性の問題(1996)試論 1

不可能性の問題(1996)試論

1. 有難迷惑な存在論と出来損ないの倫理学のみにくい教え

 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

 「有難迷惑論」は、「存在/無」の述語的二値論理に呪縛されており、「出来損ない論」は「自己/他者」の主語的二値論理に呪縛されている。それがもたらす思想的弊害は非常に大きいと言わなければならない。とくに「主体の主体性の確立」という私たちの生存にかかわるとても重要な問題が破壊され損傷されてしまうのである。

 「真」を振りかざす「存在論」は、主体の主体性を「自己同一性」と混同し、それを結局は「存在困難性(有難性)」という「混迷と矛盾(迷惑性)」のうちに見失ってしまう。これが有難迷惑的ということである(存在困難昏迷性)。この例として、わたしは特に日本型ハイデガー主義を糾弾する。

 「善」を振りかざす「倫理学」は、主体の主体性を「自己関係性」と混同し、それを結局は「自己出来損傷性」(自虐的感傷性)という「自縄自縛」(自己繋縛)のうちに閉塞させてしまう。これが出来損ない的ということである(不出来自壊性)。この例として、わたしは特に日本型レヴィナス主義を糾弾する。

 ここに二つのタイプの不可能性が捏造されていることに注意を喚起したい。「存在困難性」と「自己出来損傷性」がそれである。これはいずれにせよ、感傷主義でありペシミズムである。
 このような不可能性をわたしはフランツ・カフカに敬意を表しつつその名に因んで「可不可性」或いは「過負荷性」と呼びたい。それは、「不可なる可し」という「過負荷」な抑圧によって、主体の主体性の確立を結局陰険に妨害するだけの制限主義的な態度である。ここに「可不可性」或いは「過負荷性」というのは、要するに「無能性」のことである。

 「存在論」にせよ「倫理学」にせよ、主体の主体性を無能性の烙印を押された去勢されたものにしかしない。いずれにしても主体は「空しいもの」「虚ろなもの」にされてしまうだけである。
 するとそこに常につけこむのは「宗教」である。私はこの「宗教」を出口王仁三郎に敬意を表しつつ彼の言い方を借りて「醜教」と呼びたい。それは実にみにくい教えであるからだ。

 私はこれに対して美しい学としての「美学」を提唱したい。それは「不可能性の美学」であり、「無能性の醜教」に敵対するものである。

 「真」を振りかざす「存在論」、「善」を振りかざす「倫理学」、このいずれの考え方も病んでいる。病んだ思考からは、病んで瀕死の重体となった主体性、或いは魂の抜け殻の全く空しい主体性しか構想されるわけがない。

 しかし、主体の主体性の確立の問題は、「自己同一性」(同一性・存在)の問題でもなければ、「自己関係性」(関係性・倫理)の問題でもない。それはむしろ「自己表現性」(様相・態度)の問題において見い出されねばならない。すなわち、「真」でもなく「善」でもなく、なによりもまず「美」の問題としてそれは考察されなければならない。


 
posted by NoVALIS666 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 不可能性の問題1996版 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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