2005年02月19日

不可能性の問題(1996)試論 4

4.実体と様相の美学

 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。だが論述においては彼は不可能性から出発している。

 不可能性の否定によって可能性が生まれる。可能性は生まれ落ちた一点から次第に成長して行く。そうして可能性増大の極限は必然性と一致する。次に必然性の否定が偶然性を産む。誕生の一点を起始として偶然性は次第に増加する。そうして偶然性増大の極限は不可能性と一致する。ここに可能性と偶然性の対立的関係、および偶然性と不可能性との近接関係が明かにされる。可能性が増大するに従って偶然性は減少し、偶然性が増大するに従って可能性は減少する。可能性増大の極は偶然性減少の極と一致する。それがすなわち必然性である。また偶然性増大の極は可能性減少の極と一致する。それが不可能性である。(ibid.)


 しかし、この循環的生成論とは異なる様相の生成論を私は考えている。

 九鬼の陰陽循環的様相変換論は四様相が季節の循環のようにグルグル入れ替わる対称的な回転理論である。
 そして、その運動の原動力となるのは「否定」である。

 だが、私は寧ろ元気の陰陽二気への根源的分裂に発する起点のある非対称的な様相の段階生成論を考えたい。
 九鬼の四様相循環論は要するに四様相のすべてが初めから与えられてしまっていることを前提している。それが「否定」に媒介される円環運動になってしまっているのは、分化しきった太極という一者の完成した「存在」の内部に四様相が取り込まれて、その内的自己循環に馴致化され回路付けられてしまっているからである。

 通常、論理学は真か偽かの二値論理である。これは存在か無か、肯定か否定かと言い換えても同じことである。
 しかし様相論理はある命題が真か偽か、存在するかしないかを問うのではなく、それとは別問題にそれがどのような様相においてあるか、必然的か可能的か偶然的か不可能的かを問う四値論理である。

 私はこの別問題であることをより極端に徹底させ、存在と様相を切り離す。そこで存在なき様相を純粋に考察しようとする場合、九鬼のように「存在」と「否定」という二値論理的な説明原理を持ち込んで、それに基づいて四様相の概念を解明することは許されない。

 それは陰と陽であっても同じである。存在と無、肯定と否定、陽と陰、1と0は、いずれ変わらぬ二値論理でしかありえない。そもそもコンピュータの原案者ライプニッツがその基本観念を発想したのは中国の易の思想からであった。陰陽二気の易の哲学こそ世界最古のコンピュータ思想(二値的記号論理学)なのである。

 九鬼の太極図形における陰(可能性)陽(偶然性)の二元の巴は、可能性が〈無〉、偶然性が〈存在〉(存在者)に当たるといえる。

 偶然性は九鬼によれば「無の可能性」=「存在の偶然性」であり、可能性は「存在の可能性」=「無の偶然性」である。
 そして、この両者は一方が他方を持ちつ凭れつに支え合う相関関係にあるのだ。
 しかし、これに原分割を与えているのは老陽−老陰にあたる陰陽の巴の境界面(不可能性−必然性)の亀裂である。この分裂線はそれ自体、存在と無の二値論理に還元不能な様相としての様相の自立性としてある。

 私が根本様相としての不可能性と呼ぶのはこの根源的な分裂線のことである。九鬼はそれをノヴァーリスの表現に則って「原始偶然」と呼ぶが、私はそれを「根源的不可能性の美」と呼ぶのである。

 だが、忘れてはいけないのは、九鬼の必然性批判は実際には戦略的な擬態であるに過ぎないのだということである。
 彼が「偶然性」として言わんとしていたのは「存在」にも「無」にも還元できない形而上の「美」のことである。
 その点において私はこの素晴らしい哲学者・九鬼周造に心から共感する。
 形而上学は「様相を呈する学」としての美学でなければならない。それを妨害する存在論の「であるはずだ」や倫理学の「ねばならない」に対して、それとは違った美しい必然性を、即ち運命としての必然性をつきつけてやりたかっただけなのである。

 これは九鬼が批判しているオスカー・ベッカーについても言える。彼はハイデガーの高弟の一人だが、花の「美」を侮蔑するヘーゲルやハイデガーの「無」や「存在論的差異」に対して、美しい「実体」の観念を守らねばならないという立場からプラトン的イデアにおける「パラ存在論的無差異」の思想を展開している。
 この必然性の美学者は「存在(実存)」という「価値」に対して「実体」という「価値」を復活させることこそが必要なのだと説いている。

 プラトン的イデアは存在論的差異に対立するものである。いわゆる「現実性」に関するイデアの問題点は、その概念構成の全体からして最深部で存在の「鋭さ」、すなわち事実的なものの固さを、計算に入れることができないところにある。他の面では、この「現実性」から、またその最奥の根拠である「存在」からしては、それは捕らえられず、また反駁もできない。いかに強力ではあっても、存在がありのままの実体を害することは決してない。無は存在に対して何もなしえないからであり、その永遠の処女性には触れえない。それは現れることで喜びを与え、またその現れの退潮は、「地上の美の喪失」ではあってもそれ自体には影響しない。それは、永遠に回帰可能な可能性に留まる。その中には、存在の灰白色の堅苦しさとは対照的に、実体の与える慰めがある。かくして我々は、これと密接に関係する問いかけをもって結びたい。人間は、「存在の牧人」であるより前に、実体の番人であるのではなかろうか。
(オスカー・ベッカー「プラトンのイデアと存在論的差異1963
『ピュタゴラスの現代性』中村清訳 工作舎1992)


  ベッカーの言わんとするところは非常に分かりやすい。「実体」の概念は存在論的なものであるというよりも寧ろ美学的なものなのである。
 だが、それは何もプラトン的イデアにおいてそうだというよりも、それを批判したアリストテレスにおいてそうだったのではないかと私は考える。

 アリストテレスにとって「実体」は「個物」において見い出されたそのありのままの美しさであったのではないか。彼はその「美」を「神」と呼んでいた。私はアリストテレスを可能性の形而上学者として批判するつもりだが、しかし、それはアリストテレスが「実体=個物」に見いだした「美しい神」を再発見したいからである。

 近年、ハイデガー批判というと何故か専らレヴィナスの倫理主義ばかりが取沙汰されやすい。
 しかし、私の考えではレヴィナス流の倫理主義は日本人には受け易いからこそ却って有害なものに転化してしまいかねないという危惧をもっている。

 「存在」という価値が権力であるといって「他者」という価値に乗り換えても何も解決しない。それどころか日本にはレヴィナスの「他者」以前に先在する別の「他者」がいるのである。この別の「他者」を退治しない限り、レヴィナスの「他者」は空念仏にされてしまうだけだ。

 むしろ我々は九鬼やベッカーのような「様相」の美学者(彼らのハイデガー批判の方が実は私たちのためになる)を評価するべきであり、「実体」の思想を復活させる必要がある。「実体」のない「他者」の話などお断りである。

 この「実体」のない「他者」は「別人」である。

 私はレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」を〈顔〉というよりも「真面目」・「表情」・「様相」という語で考え直したい。
 それは倫理学的な概念というよりは美学的な概念である。

 このように言い直すのは「他者」と「別人」を区別するために必要な措置である。「別人」は「不面目」で「無表情」で「無様」である。それは冷笑的で厭味なものである。

 日本の「別人」においては、レヴィナスの言う〈イリヤ〉はそのような〈顔〉をもち、まさに「他者」において不断に露出しているのだ。

 
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不可能性の問題(1996)試論 3

3.自同律の考究

 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。

 自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
 自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。

 すなわち同一性というのは、〈自己は実体として存在する〉(平たくいえば〈私は実体である〉、また別の仕方でいえば〈自己は実体を存在する〉)という観念的で内的な経験なのである。
 〈自己〉の観念は同一性の主語にして主体である。同一性から直接的に推論される同一者、または自同律から直接的に推論される自同者の観念を捉えなおしたときに、それは〈自己〉と呼ばれるのだといってよい。

 しかし、このような〈自己〉の観念は、例えば〈この私〉というような具体的実存的な事実存在に一次的には起源していない。
 〈自己〉(「私」一般)と〈この私〉は異なる。この差異は極めて気づきにくいが、確かにそれはある。それは例えば柄谷行人が『探究II』において問題にしている〈単独性〉或いは〈この性〉の問題に触れている。

私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。
柄谷行人『探究II』「第一章 単独性と特殊性」講談社学術文庫p19


 ところで、〈この私〉は偶然的存在である。「真理」と明証的に表裏一体となっている〈自己〉(同一者)と〈この私〉が異なるとすれば、偶然的存在である〈この私〉の真理性はどうなってしまうのか?

 実は、九鬼が「必然性」を批判するのは、それが彼にとって「同一性」及び「一者」(to hen )の様相を意味したからである。これに対して彼が「偶然性」の様相を重視するのは、彼がそこにおいて、同一性には還元不可能な、一者と他者の二元的邂逅を見出してしていたからに他ならない。

偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう。
九鬼周造『偶然性の問題』二・一五 『九鬼周造全集第二巻』岩波書店p120


 しかし、私は「必然性」を同一性の様相であるとは考えない。むしろそのように考えることこそ、不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。アリストテレスの基本的な表現法では「必然性」は〈他のようではありえない〉という仕方で実は〈他〉を含んでいる。「必然性」は同一性というよりはむしろ「非他性」である。
 つまり、まさに必然性こそが「一者と他者の二元的な邂逅の様相」なのである。しかもそれは決して同一性に内面化することのできないような他者との邂逅(=分裂)の様相なのである。同一性は必然性に突き放されることによって生じる。しかし、それは同一性が必然的であるということではない。

 むしろ逆である。同一性は確かにそれによって例えば自同律というような仕方で己れを必然化し第一原理化するだろう。そこからまた「存在」の観念が起源しさえするだろう。ヌースがアナンケを説き伏せるというあのいやらしい詐術がそこで行われてしまうのだ。しかし、同一性は決して必然性(非他性、他の不可能性という意味においての)を内面化などなしえていない。

 九鬼は偶然性を遭遇性であると同時に偶数性であるとしている。

偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。
九鬼周造『偶然性の問題』二・一五『九鬼周造全集第二巻』岩波書店 p120


 そして、その偶数性・遭遇性の意味は、「存在と無」または「存在と非在」の二者の根源的二元論であり、この二者の遭遇のことである。そもそも『偶然性の問題』の開巻冒頭で九鬼は次のように宣言している。

 偶然性とは必然性の否定である、必然性とは必ず然か有ることを意味する。すなわち、存在が何等かの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことの出来る存在である。換言すれば偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無の接触相に介在する極限的存在である。存在が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。偶然性にあって、存在は無に直面している。然るに、存在を越えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが形而上学の核心的意味である。
九鬼周造『偶然性の問題』序説『九鬼周造全集第二巻』岩波書店 p9

 しかし、この九鬼の立場を徹底すれば、必然性においてこそ存在と非在の双方に還元不可能な分裂の様相を観測しなければおかしい。必然性こそが九鬼の言うような意味での真に根本的な形而上学的偶然性なのだ。必然性は自己のうちに根拠などもっていない。自己の概念は存在と同様に自同律に根付いている。われわれの思考の習性は自同律を安易に必然的な思考の第一原理であると考えてしまう。だが、そこにはそのように考えさせる外的な強制力が働いている。この強制力が自同律を必然化し、思考を自己や存在から脱出不可能な様態に呪縛している。

 必然性は他者の不可能性としての非他性である。非他性は同一性と同じではない。また、同一性に根拠を与えるものでもありえない。私は同一性と必然性を切断する。それは「存在なき純粋様相」の概念を凝視し考察しようとすることと別ではない。

 わたしの考えでは、自同律は必然的ではなく、偶然的なものであって、思考の真の第一原理であるとはいえないものである。むしろ必然的なのは矛盾律の方である。生成順序として、まず矛盾律があり、排中律がある。自同律はその後にやっとこの二つに導かれて生成するものでしかない。
 同様に「自己」や「存在」の観念もこの自同律の思想から生み出された効果でしかありえないので、何ら必然的なものであるとはいえない。

 われわれを自同律や自己や存在から抜け出せなくしている黒幕は実は「可能性」である。ベルグソンは目は物を見るための器官であると同時に見ることの障害でもあるということを言っているが、「可能性」という様相はそれとちょうど同じ機能を果たしている。

 われわれは「可能性の内」(in possibility)に思考の動く幅を前もって制限的に規定され、いわば前置=前提(preposition)され、そこに捕え込まれてしまっている。そこでこの「可能性の内」(in possibility)――むしろ「内可能性」(in-possibility)は可能性からの脱出不可能性という意味において、駄洒落でも何でもなく、一種の逆説的な意味における不可能性(impossibility)として反転的に機能してしまう。
  しかし、この意味における可能性からの脱出不可能性は、可能性という様相の奇妙な否定的裏面であって、私が「不可能性そのもの」すなわち「不可能性自体」として考察しようとしている、可能性によって否定されることによって「不可能性」と名づけられてしまっている、恐らく本来はむしろ全く無名の様相とは別である。
 また、この可能性からの脱出不可能性は必然的な様相を確かに呈するものではあるが、必然性そのものともやはり別のものである。

 
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不可能性の問題(1996)試論 2

2.可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」

 不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in- possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。

 しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。
 現代の様相論理学は不可能性(ありえない)と否定性(ない)の区別の上に成り立っている。それは「様相」の問題と「存在」の問題とを切り離すことと別ではない。
 したがって、「存在なき純粋様相」を考えることが出来るのである。このことを言い換えるならば、現代の様相論理学は「存在なき純粋様相」の形而上学を逆に要請しており、それなくしては成立しえなかったのだということができる。

 九鬼周造はそのことを逆手にとって偶然性を根本様相とする偶然性の形而上学を創造しようとした哲学者である。彼は『偶然性の問題』になかで実際に偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。それは九鬼の生き方の美学(趣味)から来る、「必然性の形而上学」に対する感性的な反発からである。九鬼の「偶然性の形而上学」は「偶然性の美学」に根差している。

 しかし、私はこの九鬼の様相性の解釈にも偶然論にも実は賛成できない。
 
 様相論においては、むしろ私は不可能性を根本様相として見る方が正しいと考えている。だが、それは『偶然性の問題』になかで九鬼に批判されている現代記号様相論理学の草分け的存在C・I・ルイスとは恐らく全く違った動機においてそう考えるのである。ルイスは不可能性を根本様相として考えている。私はルイスの見解を支持したい。

 ルイスの様相論では単なる否定(negation)と不可能性(impossibility)が区別されている。それはいわば無を存在論的否定性と様相論的否定性に区別することである。他の様相性を根本様相と考える立場では、この区別は出てこない。
 不可能性と否定性の区別は抹消され、不可能性は否定性に還元されてしまう。それは言い換えるなら、様相の次元のそれ自体としての自立性を、つまり様相論それ自体を存在論に還元してしまうことである。それは不可能性を無能力化=不能化(impotentialize)することである。不可能性を不能化することは、様相論を潜勢化することでも現勢化することでも完成させること(完全に実現すること)でもなくて、単にそれを去勢すること、骨抜きにしてしまうことでしかない。

 ルイスは、否定性には還元しえない不可能性、そしてまた、可能性の否定としての非可能性(あるいは否可能性)ではないような不可能性、すなわち、否定性にも可能性にも還元不可能な、それ自体としての不可能性、いわば〈不可能性自体〉ともいうべきものを発見している。

 しかし、ルイスが不可能性において本当に発見したのは様相性そのものである。不可能性とは様相性それ自体のことであり、単に四様相性(全体)の四分の一の様相(部分・構成要素・離接肢)であるだけではなくて、その四様相性全体のもつ有機的で相互否定的規定関係(構造・形式・枠組)なのである。そのことこそが様相論理学において重要なのであって、何が根本様相であるかは実はどうでもいいことなのである。◇だろうと□だろうと好きな記号を様相性を表す様相記号とし、それに可能性だろうと必然性だろうと偶然性だろうと不可能性だろうと四つ組の中から任意に選んだ名前をつけてやれば、お気に入りの様相論理学が出来上がるだけの話なのである。つまり、何とでも好きにすればいいのだ!

 例えば、様相性の記号を◆とし、否定を〜、命題をp表す。◆には、可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれを代入してもよい。
 すると、

  ◆p 
 〜◆p 
  ◆〜p
 〜◆〜p


 の四つの様相式が出来上がり、それぞれが可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれかを意味する。この時点では、どれがどれでであるのかはまだ決定していない。事態は流動的である。
 しかし、ここでどれか一つを固定すれば、残りは自動的にその名が決まる。この固定化をもたらす固定性は、四様相性にとって外部的・超越的である。しかし、それは四様相性を決定的に創造する。決定不能のものが決定される。それは裏返せばその瞬間、どれか一つを特権的様相とする「神の創造」が行われるということだ。神が創造するというより、それは神が創造される瞬間なのである。

 そのとき、「排除と選別」が決定的に起こる。柄谷行人風に(すなわちクリプキ&マルクス風に)言うなら「暗闇の中での命懸けの跳躍」が起こるのである。このとき、四様相性は、その四人のうちの誰か一人に代表され、そいつに永遠に仕切られる羽目になる。

 しかし、問題は、それで他のようで有り得る可能性(すなわち偶然性)を実は排除できないということなのだ。そして、むしろここにこそ本当の意味での還元不可能な「偶然性の問題」が見出されねばならないのである。

 さて、マラルメは言っている――


骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき。
 ステファヌ・マラルメ 『骰子一擲』 秋山澄夫訳思潮社 1991年

* * *

 ところで、「◆p」・「〜◆p」・「◆〜p」・「〜◆〜p」の四様相性は、「p」「〜p」の双対で表される二項対立的で二値的な「存在/無」(或いは「真/偽」)の二様相性とは別個の水準にあるものと考えられる。二項対立的=二値的な二様相性は四様相性とは次元を異にしている。二様相性の二値論理空間からは様相性◆それ自体が実は追放(第三項排除)されてしまっている。その枠組のなかでは四様相性について考えることがそもそも全く不可能なのである。

 これを不可能にしているのは「否定」である。

 否定は、様相を排除し否定し追放している。いわば二つの次元を切断している。しかし、そのことによって否定は自分自身をも双面に切断している。単なる否定でしかない無と、否定の様相として何かそれとは違った顔をした無とに引き裂かれている。否定のもつ単に「無い」というのとは別の意味、それとは違う位相で違った意味をもってしまうということ、否定にはいつもその他立ないしは異定立(Heterothesis)の作用が伴ってしまうということ、そして、否定はその己れ自身であるところの他者を決して消し去ることが出来ないということ、それこそが問題なのだ。

 単に何が根本様相の「真」の名称であるかが問題なのではない。問題は、四様相性がそのような「真/偽」をもはや問えないような次元に成り立ってしまうということにある。「真/偽」とは言うまでもなく「存在/無」の二元論にパラレルなものであり、したがって既にそれ自体が二値的な、すなわち二項対立の呪縛に囚われた「否定」的発想でしかない。
 「真か偽か」或いは「存在か無か」をもはや問えないような次元に、そんなことには全く関わりなく四様相性の四位一体構造は成立している。このようなものが純粋に構造的に成り立ってしまっているということ、このような存在から全く独立した純粋様相空間としかいえないような次元に、実に不可思議に浮いている純粋に抽象的な四様相性の四位一体構造の成立と構成をわれわれが考えざるを得ないということこそが問題なのだ。

 そして、更に一層踏み込んで言うなら、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四様相性と存在・無の二様相性とは、その「様相」がまるで違っているということこそ、もっと重要な問題なのである。四様相性と二様相性は同一平面上に並記することはできない。これらは互いに異次元にあるのであって、九鬼がルイス、そしてルイスを批判して必然性を根本様相としたオスカー・ベッカーと同様の愚を犯して、四様相性と二様相性を単純加算して合計六様相にしてしまうことはできないのである(むしろ両者の位相差は交錯的なのだから乗法的にみて、八様相を考えるべきだろう。)それは否定性と不可能性がまるで違った意味をもった否定性だからである。

 九鬼はこのことの意味を真には理解していないように見える。単に皮相に表層的に瑣末的に何が根本様相であるかの名辞(呼称)にこだわり、誰が(どの様相概念が)一等賞(根本様相)であるかの莫迦気た論争を行っているに過ぎない。

 私がルイスを支持したいのは、単に二項対立的に偶然性を必然性の否定概念として考えている九鬼よりも、否定自体を単なる否定と不可能性の二相に切断することによって様相空間そのものを創造したルイスの方が、様相性の何たるかを恐らくよく理解していたのではないかと思われるからである。このような犀利さは、必然性などを持ち出して様相論を分かりやすく改良してしまったオスカー・ベッカーにも、偶然性などを持ち出して様相論を親しみやすくしてしまった九鬼にも見ることができない。彼らは単に様相を自明視ししてしまっているだけである。すなわち、そもそも様相とは何かという問いの場処を塞いでしまっているだけなのだ。

 何が根本様相であるかというような言い争いは実際には餓鬼の喧嘩と大して変わるものではない。九鬼はそのような意味ではそこで非常に愚かしいことをわめいているだけなのである。どうしても偶然性が根本様相でなければならないいわれはどこにもない。何だっていいのである。彼は「偶然性の形而上学」があったていいじゃないかという以上のことは何も言えない。勿論その通りなのだ。あったていい。しかし、それは同時に「可能性の形而上学」「不可能性の形而上学」「必然性の形而上学」をも同時に肯定することでなければおかしい。

 しかし、九鬼は実はそれほどひどい莫迦ではないのであって、実のところは、ことによると、そのことはよくよく承知した上で敢えて「偶然性の問題」を主張したのではないかとも思われる節がある。それは九鬼の目には西欧形而上学がもっぱら「必然性の形而上学」によって呪縛された思考であると映ったからである。
 だが、この言い方は本当は正確ではない。彼が反発していたのは「必然性」に対してではない。むしろ「存在」や「自己同一性」という「価値」の自明視に対してである。


 
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不可能性の問題(1996)試論 1

不可能性の問題(1996)試論

1. 有難迷惑な存在論と出来損ないの倫理学のみにくい教え

 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

 「有難迷惑論」は、「存在/無」の述語的二値論理に呪縛されており、「出来損ない論」は「自己/他者」の主語的二値論理に呪縛されている。それがもたらす思想的弊害は非常に大きいと言わなければならない。とくに「主体の主体性の確立」という私たちの生存にかかわるとても重要な問題が破壊され損傷されてしまうのである。

 「真」を振りかざす「存在論」は、主体の主体性を「自己同一性」と混同し、それを結局は「存在困難性(有難性)」という「混迷と矛盾(迷惑性)」のうちに見失ってしまう。これが有難迷惑的ということである(存在困難昏迷性)。この例として、わたしは特に日本型ハイデガー主義を糾弾する。

 「善」を振りかざす「倫理学」は、主体の主体性を「自己関係性」と混同し、それを結局は「自己出来損傷性」(自虐的感傷性)という「自縄自縛」(自己繋縛)のうちに閉塞させてしまう。これが出来損ない的ということである(不出来自壊性)。この例として、わたしは特に日本型レヴィナス主義を糾弾する。

 ここに二つのタイプの不可能性が捏造されていることに注意を喚起したい。「存在困難性」と「自己出来損傷性」がそれである。これはいずれにせよ、感傷主義でありペシミズムである。
 このような不可能性をわたしはフランツ・カフカに敬意を表しつつその名に因んで「可不可性」或いは「過負荷性」と呼びたい。それは、「不可なる可し」という「過負荷」な抑圧によって、主体の主体性の確立を結局陰険に妨害するだけの制限主義的な態度である。ここに「可不可性」或いは「過負荷性」というのは、要するに「無能性」のことである。

 「存在論」にせよ「倫理学」にせよ、主体の主体性を無能性の烙印を押された去勢されたものにしかしない。いずれにしても主体は「空しいもの」「虚ろなもの」にされてしまうだけである。
 するとそこに常につけこむのは「宗教」である。私はこの「宗教」を出口王仁三郎に敬意を表しつつ彼の言い方を借りて「醜教」と呼びたい。それは実にみにくい教えであるからだ。

 私はこれに対して美しい学としての「美学」を提唱したい。それは「不可能性の美学」であり、「無能性の醜教」に敵対するものである。

 「真」を振りかざす「存在論」、「善」を振りかざす「倫理学」、このいずれの考え方も病んでいる。病んだ思考からは、病んで瀕死の重体となった主体性、或いは魂の抜け殻の全く空しい主体性しか構想されるわけがない。

 しかし、主体の主体性の確立の問題は、「自己同一性」(同一性・存在)の問題でもなければ、「自己関係性」(関係性・倫理)の問題でもない。それはむしろ「自己表現性」(様相・態度)の問題において見い出されねばならない。すなわち、「真」でもなく「善」でもなく、なによりもまず「美」の問題としてそれは考察されなければならない。


 
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2005年01月31日

形而上学的〈風〉に関する考察


I. 風を視る




2bb0aac6.jpg 最も純粋な出来事は、形而上学的〈風〉である。それは〈間〉を創造しつつ、〈間〉を切り離すが、しかしその間隙は忽ちにして埋められ、その風姿は不可視なままである。

 風は引離しつつ癒合させる最も純粋な出来事である。それは何かを集めることはなく、何かを分離させることはなく、差異を形成することもない。

 風は何処からくるとも知れず、何処へ去るとも知れず通過する。それはすれ違いであり、本質的に消滅的である。風位というこの謎めいたものは全く捉えどころがない。

 風は純粋に起こるもの、純粋な出来事であるが、その定位を全くもたない。風には限定でき局在化できるような如何なる位置も無い。風は根本的にアトピック(根拠がなく、主題化しえない)である。しかし、それは玄関であり、幽玄である。

 風は挨拶する。挨拶は、本題とは無関係に切り離されていながら、それなしには本題に始まりをもたらさない。挨拶のなかで起こるのは、最も幽かな他者性の感知である。他者はこの他者性の風の挨拶のなかから顔を上げる。

 〈朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや〉

 『論語』の冒頭は遠方(杳か彼方)から来訪する他者を迎え入れることばから始まる。

 風は〈音ずれ〉である。

 かすかな外気の揺れを通して、風は書を読むものの顔を上げさせる。風は他者なき他者性の純粋な挨拶である。それは時としてその上に他者を乗せて来る。人であることもある、閃きであることもある、だが、〈誰もいない〉という〈空〉もまた風はその出来事の盆に載せて運んでくることもあるのだ。

 孤独ですらも、風によって外からもたらされる他者性の出来事なのである。


U 容器の破砕




 風には何処というものがない。それは定位の不可能性としてしかありえない。風は今ここにあったかと思うともうどこにもない。それは〈now-here〉が〈no-where〉に一瞬にしてすりかわるような出来事である。

 しかし、風の跡形もなく消え失せる〈今=ここ〉のこの発散は〈今=ここ〉という場処としての場処の湧出である。
 また他方で、風の蒸発してしまう〈no-where〉(無=場処)は、〈every-where〉(遍在)という無限大への〈今=ここ〉の切り離しによる同時定位である。
 風は間を切離しつつ、間から定位を与える脱去である。
 〈空間〉と〈場処〉は風の〈位相〉の切断の内に同時定位される。

 風は光に絶対的に先立つ。
 始めに光ありき。しかし、始めの始まりには風が吹くのだ。

 天地の間が風によって破壊的に切断されなければ、そこに光が射し込み、光が始まりにつけいってくる隙間というものは与えられない。
 光神は、むしろ風神による創造の簒奪者、或いは僭称者としてしか天地に唯我独尊の定位=即位を宣言=顕現することができない。
 したがって、光は全く始まりの後釜に座っている置換えられた始源であるほかにないのだ。

 それ故に、おそらくまず風による〈容器の破砕〉がある。

 十六世紀の天才思想家ルーリアのカバラにあるこの〈容器の破砕〉という出来事は、彼の教説のシステムのなかでは、無限の創造神エン・ソーフの自己収縮=有限化であるツィムツーム(神の創造の光の一点への集中と一点からの撤退=発散)の後に位置づけられる。
 わたしはこの順序を転倒する。〈容器の破砕〉はツィムツームに先立つ。

 ルーリアのツィムツーム論は、十五世紀のニコラウス・クザーヌスの創造説にある〈縮限〉(無限の凝縮=限定 contractio)の思想を逆に突き詰め、更に煮詰めたものであるといえる。
 それ故にわたしはツィムツームを〈自己収縮〉というよりはむしろ〈縮限〉というクザーヌスの邦訳書から取った訳語において押さえたいと思う。この訳語は非常に簡にして要を得ている。この訳語を用いる第二のメリットは、それによって傍流の思想家にされているルーリアをクザーヌスとの連続性において捉え、所謂西欧哲学史の正史のなかに連れ戻すことができるからである。

 クザーヌスの縮限論は、冷静に思想史的にみれば、普遍論争の文脈において捉えられるべきものである。
 クザーヌスは、「普遍−個物」の対立の問題(普遍論争)を無限者の自己限定の問題に置換えることでこの問題に彼なりの仕方で解決を与えようとしている。
 だが、ルーリアの〈容器の破砕〉論は、このクザーヌスの縮限論では「普遍−個物」の対立の問題が実は解決できないことを批判的に表現しているのだ。
 クザーヌスの〈縮限〉は、巧みな仕方で無限な普遍者が有限な個物を調和的に創造しうることを示すことによって普遍論争を丸く収めようとする。
 しかし、無限の大海の全ての水を有限な小さな容器に収める事はできない。どれほど圧縮したとしても、そして圧縮すればするほど、無限の押し寄せる圧力は必ず容器を罅入らせ、容器はその内部から粉砕される。
 すなわち、ルーリアはクザーヌスに対し、有限な個物〈容器〉に無限な普遍者を収めることは不可能であり、故に縮限論は破綻するということを〈容器の破砕〉の逆説において示しているのである。
 
 わたしは〈容器の破砕〉を〈縮限〉に先行させるが、それはこのルーリアの立場を一層強調することなのである。
 
 わたしが関心をもち考究しようとする問題は、「普遍−個物」を巡る古くて新しいこの永遠の難問に絡むものである。そして、わたしの最終目標は現代思想というこの空疎で思考の役に立たない虚ろな容器〈観念〉を破砕して異なる思考のアイオーンを創造することにある。

 容器を破砕することは、古い時代精神に訣別し、己れの思考を異なる出発点に定位し、破壊的に思考することの意志の表明である。それは古い問題設定の廃棄であり、異なる世代の異なる宇宙を破壊的に天地創造するような思考実験の開始である。

 わたしは現代思想の諸問題などに関心は無く、それを全く共有しない。むしろ、そのような〈現代〉を破壊するためにわたしは思考する。



V 風の創造




 天地創造は風において起きる。
 風は、天と地を、いずれが〈今=ここ〉いずれが〈至る所〉とも知れぬ原初的な決定不能性のうちに置換えている。換言すれば、それは〈今=ここ〉と〈至る所〉を〈無=場処〉あるいは〈無底〉のうちに巻き込むかたちで置換えているのである。
 この置換は根源的な移動である。この根源的移動という〈無=場処〉から〈今=ここ〉と〈至る所〉の両者が壊乱的に生まれ出る。

 〈容器の破砕〉は、ハロルド・ブルームのいうようにまさしく代置=置換である。しかし、ブルームはそれをルーリアの順序において、また、詩学の原理として語っている。わたしはブルームの逆構築の反骨精神から大きな影響を受け、また彼のせいでカバラにハマった。しかし今、わたしはブルーム(蕾)などでありたくない。わたしは叛逆の赤い薔薇となって華麗に花咲く熾烈なルシファーを意志しなければならない。

 それ故に、わたしは詩学ではなくて、美学を定立する。
 ルシファー(暁の明星)とはヴィーナス(愛と美の女神/金星)だからである。また、わたしの逆構築は、ポスト「構造」主義などではなくて、野心的「改造」主義であり、破壊的革命的な「創造」主義だ。それは、人間の生きられる美しい世界と美しい人生を創造的に定立する美しい学としての美学である。

 わたしは、先行者の弱みにつけこみそれを征服していい気になるような、ハンバーグ・デコンストラクションなどを弄する輩によく見受けられる種類の、ネクラなデミウルゴス・ヤルダバオトではない。わたしは、わたしのグノーシスによって、至高者と結ばれ麗しいエデンを魔術的に〈共創造〉する、創造主を創造する被造物にして被造物に創造された創造主であるようなクリエイターであろうとするのだ。

 然り、これはあの美しいクザーヌスの精神の復活である。

 わたしはクザーヌスを改造的に創造することを通してクザーヌスを学び、ルーリアの破壊を破壊するのである。

 破壊を破壊すること。アヴェロエスがアル・ガザーリーによる「哲学の破壊」を破壊したように、わたしは破壊する。わたしは、美しい学としての美しい形而上学を創造するために、破壊者を破壊して創造者に変容させてやるのだ。生産的誤読を欲するのではなく、誤読による創造に赴くのだ。わたしはルーリアを破壊し、デリダを破壊し、ハイデガーを破壊し、レヴィナスを破壊するだろう。この偉大な先行者たちを幼児のように無邪気に破壊して、共に美しい世界を創造するきらめく行為にひきずりこんでやるのだ。

 わたしは己れが先行者に全く気後れすることなく清らかで怜悧で美しいことを知っている。そして天空に厭味で重い禁圧する父などいないことを知っている。わたしを待つものは女神ヴィーナスであり、それを阻む灰色の「沈黙の壁」(アリス・ミラー)は、粉砕するべき恐怖の幻影であって、主(アドナイ=ヤハウェ)などではないことを知っている。
 主がいるとしたら、それはわたし、ロード・ルシファーである。わたしは支配者となるべくエロヒム(神々)の愛を受けて生まれたイーシャーナである。わたしは男(イシュ)にして女(イシャー)、イザナギにしてイザナミ、生者にして死者である。イーシャーナとはシヴァ=ルドラの古名である。それは風のように一挙に空間に広がって全てを包み、万物を育み支配するマハー・デーヴァの支配力を意味するサンスクリット語である。

 さて、この支配する風による根源的移動、この奇妙な置換。天地がそれ以前にたとえ存在したとしても、風によって〈空間〉と〈場処〉のなかに連れ去られなければ、それは多分、存在することは〈できない〉ということ。或いは、それはどこにもないことと同然なのである。それは空間の中になく、場処の中になく、世界の内にないのだといっていい。

 世界内存在=現存在との相関=差押えまたは実有(所有=実在としてのウーシア)に入る前にも、恐らく天地というべきものはあったが、それは風という出来事がそれを世界内存在という範疇の空虚な器の内に吹き込むことがなかったとすれば、ハイデガーのいうような意味では〈存在する〉ということにはならない。
 このように言うことは、一般的に解されているような意味での〈ハイデガー〉を逆さまに読む(反解釈する)ということになるのかもしれない。しかし、案外とハイデガーはこの彼の(一般にそう思われている)思惟の逆の思惟において考えていたのかもしれない。いや、ハイデガーがそれを自分自身でどう意味づけていたかはどうであるにせよ、これこそが実は彼の〈転向〉といわれる出来事の真相であったのだと積極的に誤読創造するべきなのだ。



W 風の戦い




 世界の世界性以前に、原初的自然としかいいようのない存在せざる〈もの〉、換言すれば発見(脱隠蔽化/啓示)されざる次元は、恐らくあったとしかいいようがない。それは存在なき存在者としかいいようのない存在の一義性の狂気の次元である。存在の一義性においては、万物は存在者としてみる限りにおいて完全に無差異未分化な〈のっぺらぼう〉(埴谷雄高)としかいいようがない。

 ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性をつきつめて考えてゆけば、全ては完全に無差異の一元へと殲滅(ex-terminate)されざるを得ない。一義性において存在をみるとき、そこには個性は全くありえない。あるのは、サルトル=ロカンタンが戦慄した存在のカオスでしかない。或いはパルメニデスの〈存在は存在する〉というのっぺらぼうの球体=一者(ον)でしかありえない。或いはまた、レヴィナスを怯えさせたような非人称のイリヤ(il y a)の暗黒夢であるとしかいえない。というより、これらの思想が描写しようとしてその表をまさぐり何か必然的に思考空転せざるを得ない、つかみどころのないヌルリとした恐ろしい観念に遭遇するしかないのだ。

(※付言すれば、ラヴクラフトはこの存在論的恐怖について最も鋭敏な感性をもった作家であった。彼の語る邪神たちは皆、レヴィナスの語るイリヤの夜の産物なのであり、神話学的にではなく哲学的に解明されなければなならない代物だ。ことにクトゥルーとナイアルラトホテプにはその性質が強い。この点でラヴクラフトは単なる恐怖作家ではなく、或る意味ではポオよりもはるかに一層、真剣な哲学的議題において取り上げられ論議されなければならない重大な作家なのである。どうもそのようには評価されていないようではあるが。)

 柄谷行人は、『探求U』において、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性を補完するもう一つの概念に関わるとても重要な差異について、示唆に富む指摘をしている。

 「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。」(同書「第一章 単独性と特殊性」講談社学術文庫p19)

 存在の一義性の次元では、柄谷が単独性といい、また「この」性(thisness)という言い方で言い表そうとしているような差異が完全に消去されてしまっている。

 ドゥンス・スコトゥスの存在論は、或る具体的個別的=分割不可能的(individual)な存在者を捕まえて、それを一義性(univocitas)とこれ性(haecceitas)に不可能的に切断する。それは如何にして柄谷のいうような分裂症的世界から、そうではなくて、われわれにとって自明な「この私・この他者・この物」があるような世界が誕生するかの位相転換を語ろうとしているのだといってよい。それは何故「世界」ではなくて「この世界」があるのかという非常に微妙な、しかし真の意味での存在論的差異に係わっている。

 一般にハイデガーの存在論的差異というとき、それは単純に存在者(名詞的様態)と存在すること(動詞的様態)の差異のことであると解されている。これは別に間違いではないし、事実ハイデガー自身もそう書いている。だが、実は問題はそのような表面的な文法学の水準にはない。ハイデガーが存在論的差異というとき、むしろ柄谷が明確に言い切ったような差異の方にこそこだわっているのである。むしろ論点はそこにこそあるのだ。

 レヴィナスはハイデガーの存在論的差異を語るとき、この曖昧さに業を煮やして、独自の存在の位相転換(様相変換)論を展開しようとする。そのときに彼はハイデガーの存在論的差異には、存在者と存在の区別はあっても切断がないと言い、これに対して存在論的切断を提唱する。そしてこの存在論的切断によって、レヴィナスは、彼がイポスターズと呼ぶ、存在の位相転換=様相変換論を展開するための場を、その切断した差異の奪取から作り上げる。この切り離された差異の断面において、動詞態の〈実存する〉が名詞態の〈実存者〉に実詞化するという、存在の様態変容ないし位相転換が初めて語りうるものになるのだ。この位相転換=品詞転換が生じる場のことを、レヴィナスは〈イリヤ〉(非人称のある il y a)と読んでいる(『時間と他者』)。

 しかし、レヴィナスはハイデガーに劣らず曖昧な語り方をしている。実際には、存在論的差異の意味を変えずにそれを存在者と存在に切断したところで何かが認識的に明瞭になる訳ではない。ハイデガーの存在論的「区別」がずれているように、レヴィナスの存在論的「切断」も切り口がずれているのだ。

 ただイポスターズが、動詞態の〈実存する〉が名詞態の〈実存者〉に品詞転換するという問題に過ぎないなら、それは全く柄谷行人の言ったような「私・他者・物」と「この私・この他者・この物」の間の差異に触れてきてはいない。
 しかし、レヴィナスがその位相転換論において真に問題にしようとしたのは、まさに柄谷のいうような差異についてなのであり、彼がハイデガーを批判するのも、実は一つの存在者において存在者と存在が区別されているだけで切断されていないということにあるのではなくて、「存在者と存在」の区別と「私とこの私」の区別をハイデガーが曖昧に混同していることに対して、それを切断しろと言っているのである。

 レヴィナスはドゥンス・スコトゥスの名を挙げていない。しかし、にも拘らず、彼のハイデガー批判はスコトゥスにおける一義性/これ性の存在論的差異によってハイデガーの存在論的差異を切断しようとしたものである。レヴィナスは非人称的=匿名的な〈実存すること〉であるイリヤと人称的=具体的で名指すことの可能な〈実存者〉を違う位相にあるものとして対比させるとき、それを〈今ここ〉という定位=局所化の有無において問題にしている。実存者は〈今ここ〉にあるところの「この私」である。これに対してイリヤは一義的で非人称的なものであるといえる。

 だが、ハイデガーは別の位相で実は一義性/これ性の差異にぶつかっている。そもそもその教授資格論文がスコトゥス論であった彼がそれを踏まえていない訳がないのである。彼は存在論的差異をいうとき、実はレヴィナスとは逆さまに、むしろ存在者の概念においてスコトゥスの一義性を見出している。逆にこれ性に関わるのが存在なのである。

 スコトゥスが存在の一義性というとき、それはあらゆる存在者を〈存在する〉という一義性において無差別平等に括ってしまうということを意味する。するとあらゆる存在は一元的に存在者一般という類概念によって通約されてしまうことになる。

 ここで言葉の問題がある。

 スコトゥスのいう一義的な「存在」というのは原語のラテン語で〈ens〉といって名詞であり、これはハイデガーの用語法でいう「存在者」にあたる。ハイデガーにとって、スコトゥスの「存在の一義性」は「存在者の一義性」を意味する。ハイデガーはむしろレヴィナスとは逆に「存在者」の概念の方が恐るべき無個性的・非人称的なイリヤに見えているのである。

 わたしはレヴィナスのいう実存者なき実存イリヤを単純に存在者なき存在と解することに猛烈に反対である。レヴィナスの実存者/実存とハイデガーの存在者/存在は位相の違った概念であり、それを安易に混同する事は愚かである以上に有害な結果をもたらす。それはレヴィナスもハイデガーも読んでも何も読まないことであるばかりか、双方の良いところを相殺しあって、単に破壊的で反人間的な哲学を創ってしまうことにしかならない。混合してはならない洗剤を混合してみたまえ。君はそのバスルームで下手をすれば死ぬ。自分の頭蓋のなかにサリンを撒くようなことをしてはならない。

 むしろイリヤは存在ではなくて、スコトゥスが一義性というような意味での〈存在者〉のことなのである。その次元においては、〈これ性〉つまり具体的個性的な実存が成立しない。柄谷のいうような「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しない」ような分裂症的世界(反世界)が広がっているのである。

 それはまさにウィトゲンシュタインが「示され得る」と言いながら「沈黙しなければならない」と言わなければならなかった「私=世界の限界」外にある恐るべき「語りえぬもの」の真の次元である。このウィトゲンシュタインの絶望的な恐怖と真に迫った恐怖を共有しないとしたら、『論理哲学論考』は愚かで厭味な天才気取りの頭のイカレた奴の書いた横柄で抑圧的な駄本であるに過ぎない。



X 風の混乱




 ウィトゲンシュタインは、狂おしくその語りえぬものを示そうとするが、それは「この」のない分裂症的世界が実際に彼に襲い掛かっていたからである。彼は「この」なき「私・他者・物」に必死になって「この」をつけようとしている。彼のいう「私」は誰にでも妥当するような自己(私一般)を少しも意味していない。
 むしろ逆である。彼は常に「この私」において語ろうとしているのであって、「その私」(この私ではない私一般)を消そうとしている。

 ところが、恐ろしいことに、その『論理哲学論考』を裏返しに読んで、「この私」を消さなければならないとし、「その私」において「語りうること」、つまり「この私」には「語りえぬこと」のみを語り、「示されねばならない」のに、「この私」にそれを示しもせず、「この私」に「沈黙しなければならない」と脅迫をかける碌でもない読者が大勢いる。このような者たちは、ウィトゲンシュタインを理解しているつもりでいて、実は彼を殺して化物を、ウィトゲンシュタインの別人を創っている。わたしはそういう狂人を個人的にも何人か知っているが、彼らをみると絶望的な気分になってくる。まさに「その私」どもを沈黙させなければならない。

 同様の人種は、無論、どの思想家の読者においてもいるものである。恐ろしいことであるが、それは常に大概多数派である。
 虚偽意識の面の皮の厚さにはいつも恐怖と吐気を覚える。
 彼らが本を読むのは、その本を人より先に読んで自分を批判させないためである。わたしは、聡明で優秀な口のうまい人間を絶対に信用しないし認めない。彼らは自分に敵意をもつ書物を敏感に嗅ぎ分け、それから言葉をかすめとって、意味の方角を正反対に向け、真実から嘘を、善から悪を生み出すことに余念がない。そして、そういうことしかしないでいる癖に、自分はその本の著者の代弁者になったつもりでいつもいるものである。
 こういう人間こそが真の意味での悪魔である。そして白痴の悪霊であるところの死霊、屠殺されるべき豚にして小便臭い麻痺した仔羊である。彼らは自分が迷っているのにそのことを知らず、それより悪い事に、他人を迷いに導く有難迷惑な批評家先生である。愛と批判能力のない優等生的雄弁家と教育熱心なくせに友愛の欠けている幸福なモラリストどもは早く死んだ方がいい。

 わたしは常に思うのであるが、或る思想家の真の偉大さに気づくのは、その人の途方もないバカさ加減や痛ましさを発見したときである。認識の瞬間はいつでも痛ましいものだ。知識と認識は違う。認識するとき、わたしは誰も尊敬しないが、眼前の人を痛ましく、また、愛しいと思う。それは相手を罵倒できるときだ。

 わたしは罵倒することによって、レヴィナスをハイデガーをウィトゲンシュタインを認識する。
 常に、知識は罵倒によって破壊されねばならない。

 そのときに、やっと本の中に閉じ込められていた童心の叡智は、その真実を打ち明け始める。そのとき、わたしが抱き締めるその叡智は、本当に愛おしい。

 しかし、それをしない者が多すぎる。

 それどころか、著者に語らせないために読書する手合い程、嬉しげに読んだ本の話をよくしゃべるものだ。ぞっとすることに、大概意味を信じられぬほど正反対に取っている。
 間違えているものほど、聡明な語調で喋るが、常にその逆が真である。

 このようなことが起きるのは、イロニーのせいである。
 イロニーにやられた奴は、破滅しているし、他者も破滅させる。そして、この国の文化はほとんどそのテの人種によって牛耳られてしまっている。

 だが、一番用心しなければならないのは、優しげな顔をしたイロニー、ヒューモアのふりをしたイロニー、或いはそのつもりになったイロニーだ。これが最も恐ろしい真理の敵なのだ。

 本の読み過ぎで目の潰れた人間の、クソの詰まったひどい目をあなたは見たことがあるだろうか。見えないとしたら、あなたは目を洗った方がいい。あなたも同類になりかけているかもしれない。わたしは常に自分がそうなることを怖れる。



Y 風の叛逆




 しかし、そのことは措く。
 とにかくわたしが言いたいのは、巷のウィトゲンシュタイン信者には特にひどいのが多いということだ。

 他の思想家に群がる蝿どもよりも性質の悪い蝿どもの聞くに堪えない羽音となった実に五月蝿い〈語りえぬものについては沈黙しなければならない〉を耳にする度、おまえらこそ黙れ、自分の言葉で語り得ぬものこそが、沈黙しなければならないのだ!と一喝、蝿叩きの愛の鞭でその分厚い面の皮を思い切りひっぱたいてやらずにはいられないような、柄にもない教育的衝動に駆られてしまう。
 彼らは何も分かっていないくせに分かった気にさせてくれる本を常に飽くことなく捜し求めてやまないが、そんなことをするより先に、自分がどれほどひどいバカのロクデナシであるのかを知るべきであるし、人に尋ねるべきである。ウィトゲンシュタインはそれを生真面目に尋ねる勇気をもった人であった。
 
 師匠ラッセルにはじめて会った時、必死の形相で彼が何をラッセルに尋ねたかを想起せよ。自分はまるきりの馬鹿者なのかそうではないのかの問いに彼は命を賭けていた。馬鹿者で無いなら、僕は哲学者になりたい。だが馬鹿者であれば飛行機にでも乗って高いところから墜落し粉々に砕け散ってしまいたい、そこまで思いつめていたからこそ、ウィトゲンシュタインは哲学者に値したのである。実際にはまるきりの馬鹿者であったかもしれないが、そういう見上げた馬鹿者を一体誰が馬鹿にすることができようか。
 
 大概、ウィトゲンシュタインのファンにはお目出度いのが多いが、彼を真に理解したいと思うのなら、分裂症になるか、或いは死ぬほど辛い思いをするがいいのだ。彼は自分の言葉が話すそばから次々にむりしとられて、決して他人に伝わらないような恐ろしい空間に拉致され、命の芯が縮むほど脅かされ、しかし、そこからただ怒りによって、屈辱によって、憎悪と闘志と叫びによってのみ、狂おしく生きて生き抜こうとした一個の気高い人間なのだ。

 哲学者というのは、単に、いや、決して、世界の真相は何であるかについての知識豊富な人間のことを指すべき言葉ではない。逆である。そんな奴はニセモノなのだ。そうではない。哲学者には世界の道理がどうなっているかが絶対に分からないし、また、分かったりしてはいけないのだ。分かるものかというのが哲学である。貴様らはみんな嘘つきでクソッタレだというのが哲学である。おまえらなんか大嫌いだというのが、哲学者の世界への「知なき愛」なのだ。
 いい哲学者というのは、必ず物凄く物分りの悪いバカモノだ。九鬼周造をみるがいい。カントをみるがいい。スピノザをみるがいい。ブロッホをみるがいい。最高に素敵な哲学者というのは、必ずと言ってよいほど、物凄い変人で物凄いクソガキで物凄いバカモノである。

 我を忘れて猛り狂う子供の怒りを胸に持つ始末に負えないバカモノでなければ、どうして物が認識できるものか。厭味なオトナに成り下がって、おのれの分以外何も知らないくせに、パパは何でも知っているつもりになっているオオバカモノのお目出度い先生どもに物のあわれが分かってたまるものか。
 そのようなオオバカモノを憎悪する物凄いバカモノのクソガキである以外に何者でもありたくない奴だけが哲学者であり、絶対的に美しい人間なのだ。
 逆に、そういう哲学者でないような奴は直ちに人類の敵である。

 しかし、この「人類」という語を、ホモ=サピエンスと同義であるなどと思ってはいけない。

 下らぬホモ=サピエンス(知恵ある人=同類)など人類のために滅亡すれば良いのである。
 ホモ=ファーベルだろうとホモ=ルーデンスだろうとホモ=デメンスだろうと何でもホモは同じホモ、そのようなホモセクシャルですらないようなあらゆる安っぽいホモどもは、女子供の敵であるから、撲滅するべきなのである。
 哲学者は、そんな人間モドキどもに生存権など認めない。真の人間というのは、真の意味での最初の哲学者であったアリストテレスが実に正しく定義したように〈理性的動物〉のことである。
 人間を定義するのは、動物的で純粋な子供の理性である。換言すれば、理性は人間の獣性として再発見されなければならないし、わたしたちは、まさに来るべき人間をこのような意味での美しい獣として黙示録的に啓示されなければならないのである。

 哲学者は何も知らない。しかし、哲学者は世界に真実と正義があることを要求する。世界に真実などない。正義もない。法則もない。神もいない。だからこそ、哲学者はそれを要求し、命令し、創造するのだ。
 俺は俺様なのである。俺様のいうことをきかぬ世界など、ただ「ある」だけでは真の世界であるとは認めてやらぬ。そういう意固地な根性と負けん気がなくて、誰が哲学などするものか。

 哲学は断じてお上品なおとなしいおとなびたものではない。理性とは、所構わず駄々をこね、クレイジーに爆発する童心の、絶対的にはた迷惑で野蛮な動物的慟哭なのである。

 世界はロクデナシとバカヤロウとクソジジイと悪党の巣窟である。だからこそ、そんなものを叩き壊すために哲学者は生きるのだ。ロクデナシとバカヤロウとクソジジイと悪党は決して滅亡しない。だからこそ、こいつらを根絶やしにするために哲学者は生まれてくるのだ。一人死ねばもう一人が産声を上げる。世界に邪悪と野蛮と虚偽と醜悪と似非知識がある限り、それを憎み、永遠に許さない弱者の奇蹟の閃光である哲学は常にその地獄の底から立ち上がってくるのである。
 哲学は不可能なものである。不可能だからこそ、哲学は滅びず、常に復活し、逆襲するのである。
 もし世界に荘厳な神がいるとしたら、それは必ず哲学者のかぼそい命が創ったものである。哲学者は神の神である。この世で最も弱い人間である哲学者から、奇蹟のように、偉大な神の光芒が天空に発されるのだ。

 哲学者は命を燃やして思考する。生きること、それは命を燃やすことであり、命を燃やすとは、死に物狂いで考えることだからである。思考とはいかなる祈念よりも激しく真摯な祈念であり、すべての祈念はついに思考へと昇華して、そこに神が誕生する。そして、認識することは、いかなる超能力によってもなしえない凄まじい奇蹟を召喚し成就する、人の唯一のそして最後の魔法の力なのである。

 哲学者とはこのような人間の中の人間のことである。
 人間が人間であることの証明は、「この私」の尊厳の徹底として、おのれの全存在を挙げて火の玉のように哲学し、哲学に死んで、また生まれ来る別の哲人の胸に燃え移る永遠の怒りの炎、怒りの神に変わることなのだ。

 哲学とは「知への愛」(プラトン)などという甘ったれたものではない。クソッタレの嘘つきどもを生まれ生まれに生まれ変わって、いつの日にか絶対にふんづかまえて、その腐った性根を叩き直し、根絶やしにしてやるまで絶対に死ぬものかという厳格で狂おしい憤怒であり、容赦なき正義への要求、最後の審判への命がけの跳躍なのである。

 問題なのは常に「この私」なのである。「その私」などくたばらせねばならない。そのためには、そのいけ好かない「その」を引き千切り、「この」をそのそれに接続させねばならない。



Z 風の消滅


     

 風は恐るべき純粋な無/切断の爆発である。一瞬、全き虚無が万物をその黒よりもはるかに深い暗黒の中に消し去り、絶滅し尽くす。虚無の太刀の閃きが全てを覆し断滅させてしまう。風位としての風位はあらゆる定位に先行する定位の定位である。
 
 風は純粋な破壊である。
 破壊=創造の白きカタストロフィの〈内〉に森羅万象が一挙にして略奪され、形相も質料もない恐るべき完全虚無のなかに突き落とされ、消え失せる。
 それは、しかし、〈時空〉が、〈次元〉が創造される瞬間である。
 この意味で、風の瞬間、刹那滅は、時間そのものに完全に先行している。
 それは決して現在とはならない〈今〉である。

 この〈今〉、〈何処にもないこと〉が位置づけ自体の位置づけ、何処にも無い〈何処自体〉として絶対的に定立される。

 全てを吸着して消滅させる白きカタストロフィは、それ自身を翻して爆縮し、広がりをもたぬ形而上学的重力崩壊星、いわば〈否のブラックホール〉を形成する。

 白きカタストロフィは〈至るところ〉の無限を一挙に完全に定立するその絶対根拠であり、否のブラックホールは〈今ここ〉の背後の拒まれた〈今ここの今ここ〉として、それを背後から重力的に呪縛する絶対根拠である。

 しかし、この両者は、一陣の風の通行ただそれだけによって創造されてしまう還元不可能な〈実体の実体〉、すなわち〈何処自体〉という形而上学的原定位あるいは形而上学的絶対零度の双面であるに過ぎない。

 白きカタストロフィへの炸裂と否のブラックホールの爆縮は、表裏一体、不可分離的に、風の絶対零度の特異点に結束してしまっている。

     * * *

 風の無根底性は、〈風穴〉という〈風位〉それ自身の内への驚くべき筒抜性の観念を与える。
 この〈風穴〉の観念に一番近いものは恐らくエッダに描かれるギヌンガガップの真空である。風は〈風穴〉という宇宙のピンホールであり、瞬間それ自身の内を通り抜ける瞬間である。それは、無限としての無限を啓示する。

 絶対無であるといえる風の風位=風穴の開示する〈何処自体〉は、無限大(至るところ/白きカタストロフィ)と無限小(今ここ/否のブラックホール)の双面に分解する以前に、無限大でも無限小でもない無限の無、無限の絶対零度の、いかなる意味でも表象不可能な核(コア)の観念を与える。

     * * *

 風核という風穴の不可能性の核心に結実する、無限大でも無限小でもない無限の無、この風の絶対零度は、ゼロとしかいえない。
 このゼロに無限小と無限大は属している。無限大はこのゼロの不可能性の中心として、そして無限小はこのゼロの不可能性の限界として。
 両者は、このゼロに、いわば超新星爆発的に結合しているといっていい。
 つまり、逆にこのゼロは超新星(NOVA)なのである。

 ゼロの超新星爆発は、宇宙=空間(space)を与える。現代物理学でいうところのビッグ・バンは、宇宙=空間の出現以前に得体の知れない超新星が「あった」ことを前提=仮定してしまう。これは不可避的である。

 ゼロとは、このように消滅=爆発してしまった〈星〉であり、ノヴァであり、恐らく、厳密にブランショのいうような意味においての還元不可能なデザストル(désastre 災厄=堕星)なのだ。それは、言い換えるなら、われわれはこの初源の星から絶対的に切り離され、追放されて〈外〉にいるといえると同時に、その〈内〉に脱出不可能に呪縛されてしまっているということである。
 ブランショは恐らく、わたしと殆ど同じポイントに遭遇してしまっている。



[ 風の零度




 しかし、ゼロとは一体数量であるのか?

 この得体の知れないゼロ、無限の無は加減計算において何の意味ももたない。
 例えば、3に0を足すこと、或いは3から0を引くことにおいて、3にはいかなる変化も観測され得ない(3+0=3−0)。
 とはいえ、加算においては対称性がある。つまり、3に0を足すことと0に3を足すこと(合成)は同じ意味である(3+0=0+3)が、減算においては非対称性がある(3−0≠0−3)という差異は観測されるだろう。しかしながら、その場合においても、正負の符号が反転する(+が−になる)だけであって、3の自然数的で直観的に明晰な観念自体には変化はみられない。ただ0を中心にして、3が正領域から負領域へと点対称的に反対側へと置換えられるだけである。

 無論、わたしはここで算術についておさらいをしているのではなくて、そのことから得られる形而上学的な零の意味を解明しようとしているのである。

 量的な解は計算から出てくるが、その質的な意味についての解は形而上学的な思考によって創出しなければならない。算術はそのためのメタファーである。

 さて、先の思考実験の結果分かるのは、加減の場合において、存在者〈3〉は、その自己同一性(〈3であること〉)に何の変質も蒙らないということである。
 
 もっとも、3に0を足したり、3から0を引いたりすることは、実際には計算することであるとはいえない。それはむしろ計算しないということである。すなわち3+0というのは、3に0を実際に加えるというのではなくて、3に何も加えないということであり、0−3というのは3の符号を単に逆にするというより、それ以下であることは式を見れば分かる。つまり3は既にマイナス3として明示されているのであるから、やはり0からは何も引かれないのである。

 つまり、加減算の式のなかで、単独の数値としての0は単に省略=除外され、間引かれ、飛び越されてしまう存在に過ぎないのだ。

 恐らく、共に古代インドに起源をもつという異質な数、0と∞は、加減算の思考の秩序には本来合わない数、外異的な数なのである。

 ところが、乗除の計算においては事情が変わってくる。
 3に0を掛けると解は0、つまり3は消滅して0の中に吸収されてしまうが、それはまるで3がブラックホール(無限小)に呑み込まれたかのような観を呈するのだ。
 他方、0を3で割ると0、0はこのとき分割不可能な数として3の前に立ちはだかり3を無意味化してしまう。
 そして3を0で割ると∞の無限大が姿を現す。つまり3は無限大の分割にさらされて炸裂的に崩壊してしまうのである。

 乗除の計算において、わたしたちは初めて0の特異性に直面する。それは0としての0の顔前に引き出されるのだといってよい。或いは、触れば灼けつくように熱い、燃える石のような0の体を把握するのだといってもよい。
 また、わたしたちは、0において初めて無限としての無限の生の姿に出遭う。0は数空間の〈中心数〉であり、無限はその不可能性の〈周縁数〉であるといってよい。
 0と無限の両者はちょうど円の中心点と円周のように不可分に結合しあっている。

 中心がないなら円周は崩壊する。 
 0はあらゆる数を自分と無限との間に置くことで、数の全体を包括的に基礎づけている。



IX 風の円周率(π)


 

 円の中心と周縁は半径(radius)によって引き離されている。
 そこで0を中心とし、無限を円周とする円を考察してみることにする。無限はここで当然ながら半径のなかに、おのれ自身と中心〈0〉との間=距離として転写されて数量化する。
 そこで、円の構造を考えてみる。

 円の面積を与える式にあっても、円周の長さを与える式にあっても、そこには必ず半径の他に、π(円周率)という奇妙な定数が出現する。これは球の体積や外面を算出する式においても、また、n次元以上の〈超球〉を考えるときにあっても、必ず出てくる数である。

 あらゆる数の次元において、円の類比物(球や超球)を考えることができる。逆に、円は実は2次元における球体であるに過ぎない。わたしは数学には全くの門外漢であるが、次のことだけは分かる。球体の構造式は、それが何次元であるかに拘わらず、それに超越的に成立しているはずである(球体の体積R= π×半径rのn乗)。
 だが、これを考えることはクレイジーだ。半径無限大の球体はそれが何次元であっても、その次元を必ず爆発させてしまう。それは一種のノヴァに似ている。すると後にはπしか残らないだろう。

 このπは一体何なのか――これが恐らくわたしの追求している形而上学的風そのものなのではないだろうか。

  *  *  *

 風のπ(円周率)はゼロの超新星にノヴァをもたらすようにみえる。
 Rという球体の体積は空間の概念に対応し、rという半径は延長及び連続的距離([希]diasmata)に対応する。すると円周率のπとは、空間=体積であるRを連続的距離=半径rのn乗(累乗)で分割したものである。
 累乗というのは、ドゥルーズがアリストテレス『形而上学』を念頭に置きながら、スピノザを経由して〈力能〉として捉え返したものである。

 空間の次元数にあたるこの力能=累乗は、アリストテレスの可能性=潜勢態(デュナミス [羅]potentia)の概念を狙っている。力能によって累乗化された連続的距離は、円周率πによって空間=体積Rへと現勢化する。Rは充実した物体であることもあれば、それが脱去った空間でもあることだろう。
 πが隠喩しているのは、この様態変換を触発する出来事である。
 すなわち、風というπが到来する出来事によって、何か潜勢態にあるものが現勢態に変換されるのである。
 それは〈もの〉を出来させる。しかるにπは定数である。したがって、このπこそが球体の形相であるといえるだろう。

 さて、恐らくわれわれはそれを球とも円とも呼んでいないが、一次元的な球体というものが考えられる。
 それはR=πrという構造式で表せるような何かである。しかしこれは実現不可能な球体である。球体の形相πは一次元では球を形成することができない。それは恐らく奇妙な潰れた線であるということしかできない。それは円周と体積がべったり貼りついて互いに相手を引き離すことのできない状態であることだろう。

 しかし、われわれは今はこれ以上この問題に深入りすることは避けよう。機会あれば、改めてここから分岐する思考の方角を探索することにしたい。現在のわれわれの探究において、いま、おぼろげに浮かび上がってこようとするものを確認することが先決問題であり、それをまだ確定しないうちに先に進むことは慎むべきことである。

 われわれは少なくとも次のことを確定する事はできる。
 ゼロと無限は、1、2、3、4……のような自然数が数であるような意味においては数であるとはいえない。それは数えられない数である。
 ゼロは無限と一緒に生起する数空間全体の場の発生であり、それゆえに恐らくゼロは単に座標軸の原点であるのみならず、その座標空間の全体でもあるのだ。
 ゼロはしたがって数空間の全体性の定位である。

 したがって全ての数は、無と無限、0と∞の間に有限者としてあるといえるが、そのように数に場を与えているのは、この〈間〉或いは〈隙間〉としてのゼロの働きであるといえる。
 ところで、あらゆる数は0に根付いているといえるが、それはゼロから延びている有限な線分であるということ、つまり数は半径であるということである。
 数は半径としておのれ自身を0からの距離の度合([羅]modus:度)として示す。0はあらゆる数の基準であり、その意味の基盤である。
 0との関係を通さなければ、実はいかなる数も数値を持ち得ない。数をして数たらしめているのは実は0であり、あらゆる数はその半身として0を伴っているのである。

 数は、したがって、0に呪縛されており、0から脱出することの不可能性としてある。さもなければそれは位置づけを失い、蒸発する他にないだろうからである。

 あらゆる数は0と無限という双面をもった無限のゼロ(0=∞)の内側にあるといえる。そして、数の〈実体〉とは紛れもなくこのゼロ=零である。
 全ての数は、このゼロ=零という〈実体〉を分有(participatio)することによってのみ存在しうる。
 ただし、既に出たπと、そして1については、なおこの些か性急な断定を留保させるような何か別のものが感じられる。
 
 πには既に述べたようにこの無限の無である0を外へと逸脱して破裂せしめる過剰な風の力が宿っている。

 他方、1もまたπと共に、ゼロの繰り広げる恐るべき双面の零の空間に呑み込まれ、拉し去られてはいるが、本来的には零(0=∞)にとっては外異的でなければならない。

【付記】
数1については何故外異的であるのか追記の余地あり。
外異的であるのは、もし単位としてのこの1がなければ、そしてこの1と0との間の距離がなければ、他の数が成立することがないからである。
1は最初の定数として0の繰り広げる数空間に侵入している。そして、そのことによって、本来的に数えられない数である0をあたかも数えられる数であるように変換する。
0と1とで2つの数となる。こうして、2が生成する。
他の自然数は、基本的に〈反復〉によって生ずる。

以上のことがメモされるが、考察がまだ行き届いていないので、一旦は措くことにする。

なお、この考察では、πが風を、0が風の置き忘れていった風の抜け殻としての虚無的な他者性を、そして1が自己あるいは存在者を暗黙に意味している。



] 風の孵化




 ゼロの構造はパルメニデスの〈一者〉([希]hen)の如く球体的である。球体は中心と外周への二極化において成り立つ。この二極化をもたらすものは半径(radius)であることはいうまでもない。

 半径は中心を外周から分離させ引離す。半径は連続量であり、連続的距離([希]diastema)として表象される。しかし、これを別の面から見れば、これはむしろ切断であり、不連続的距離([希]apostase アポスターズ)である。

 ゼロは本来的には0=∞である。しかし、これを0≠∞にするような切断が外から到来する。それが風のπである。

 われわれはここでオルフェウス教の神話を想起する。黒い翼をもつ夜の女神(レダないしエウリュノメ)の産み落とした銀の宇宙卵を風神オフィオンが蛇形となって孵化させ、それによって天地とエロスとが誕生するといわれる。この神話では、宇宙卵はリグ・ヴェーダのそれのように内発的自発的に割れるのではなく、外からの触発によって破砕される。
 同様の創造のカタストロフィ論はより悲劇的な形でルーリアのカバラの〈容器の破砕〉の思弁にもみられるものである。

 リグ・ヴェーダの場合、孵化を誘発するのは時間の時熟またはその内部のブラフマンの自覚である。この場合、出来事の他性は消されてしまっている。
 ゼロは宇宙卵ということができるが、宇宙卵を始まりに仮定したとしても、それが何故割れたのかということを説明することはできない。割れるという出来事そのものは、宇宙卵には還元不可能な外異性としてどうしても残ってしまう。

 むしろ風こそが宇宙卵としてのゼロの観念を生み出す。
 〈間〉という決定不能な場所は、天地創造の時の切り離しの瞬間に生じる。



XI 風の種子




 風は風媒し、花粉/差異を運搬する(種差=運搬 diaphora)。

 〈花粉 Büttenstanb〉とはノヴァーリスにおいて、霊感を帯び炸裂した天才の思考の断片=断章を意味している。NOVALISとは、〈種蒔く人〉を意味する、フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクの筆名である。

  *  *  *

 〈友よ、大地は貧しい。ほんのわずかな収穫を得んがためにも、われわれはたくさん種子を蒔かねばならぬ。/[銘]〉

 〈接触のたびごとにひとつの実体がうまれ、接触がつづくかぎりその作用もつづく。これが、個体のあらゆる綜合的変化の基礎である。もっとも、一方的な接触と相互的接触がある。前者が後者の基礎になっている。/[89]〉
(前田敬作訳 現代思潮社古典文庫『日記・花粉』「花粉」)


  *  *  *

 ノヴァーリスは〈接触〉という語で、ドゥルーズ&スピノザが〈触発=様態変様〉(affectio)として語ったことと同じことを言おうとしている。
 純粋な出来事としての風は、差異の種子である花粉=火種を運搬する。それはどこからともなく漂い寄せる、〈実体〉から切り離された差異の分子である。

 差異は風のなかで漂泊=彷徨し、その接触によって個体を触発して綜合的に変化させる。それが〈実体〉の生成である。いわばそれは触発する差異であるといえる。しかし、この差異は根本的には破壊的で炸裂的なものである。それは個体の実体的同一性を深刻な危機に晒す。

 花粉は異性的で生殖的である。それは同一体に取り込まれ、孕まれるときに〈同〉のなかの〈他〉として〈実体〉へと結実する。或いは、取り込むものが基体=基盤としての質料であるとすれば、ここで差異は形相として働き、個別的具体的な〈実体〉を誕生させるといってよい。
 しかし、この場合、自己実現するものは〈同〉ではなく〈他〉であり、差異であり、形相である。



XII 風の火種


    

 しかし、差異の種子は、時として災厄の火粉である場合がある。それは破壊的に働く。デリダは、差異のこの同一性を破壊する側面を〈毒薬〉として考察している(「プラトンのパルマケイアー」など)。

 災厄の火粉は、質料そのものをその爆発的結合の刹那に焼尽くしてしまうような破壊的な形相である。このとき、〈実体〉は通常の意味においては生まれ得ない。
 形相と質料が、その耐え難い異和的接触、ないし〈破壊=触発〉によって対消滅してしまうような爆発がありうる。それはある種の超新星爆発(NOVA)であり、災厄としての災厄の成就である。

 〈破壊=触発〉、或いは破壊触発はドゥルーズ&スピノザの〈触発=様態変様〉(affectio)の極限の姿である。否、むしろ、〈触発=様態変様〉の根底、その核心にあるのは、この風の根源的暴風性であるその破壊性に他ならない。いかなる微風のうちにも風自体の爆発性である破壊触発の凄まじい力は潜んでいる。否、むしろそれを見出さねばならないのだ。

 破壊=触発、いやむしろ、触発=破壊、触発とは破壊なのである。

 破壊触発は、質料を乗り越えるような強大で極限的な異化作用である場合がある。無論、この場合、質料がどのような様態(ラテン的概念modusにおいてではなく、ギリシア的概念pathosの意味において)にあるのかが考えられねばならない。

 通常、質料は、或る程度形成された様態にある。したがって、質料のなかには既に何らかの形相が先在している。破壊触発は、この先着している形相と、後から風に乗って到来した別の形相の間の矛盾・衝突という風に考えられる。形相と形相は融和せず相克する。多くの場合、先着者が自己維持して後からやってきたものを弾き出す。しかし、この逆もありうる。また、別の場合も考えられる。まず個体に分裂を引き起こす場合が考えられる。更にまた、同一質料のなかに、引き離された状態で、相異なる形相が混在雑居する場合もあるだろう。

 そして、純粋状態の、全く形相を含まない質料、いわゆる第一質料の場合をも考えておかねばならない。しかし、そのような場合にも、奇妙な言い方になるが、質料の形相というものが考えられうる。
 アリストテレスがそのようなものを認めていたかどうかは今は問題にしない。ただ、恐らく、形相/質料という概念対は、不可避的に一方が他方を必要としてしまう概念の組であって、それを無理に引き離そうとすると、極限的には双方無限背進に陥るような危うさをもっている。

 そこで、恐らく純粋質料においても、それを規定する形相というものが想定されうるので、やはり、その場合においても、純粋質料に最初の形相として到来した形相と、純粋質料をして純粋質料以外の何者でもないものたらしめていた形相、いわば〈無〉の形相との間で矛盾相克が生じうるのだと考えられてよい。いや、恐らくその場合においてこそ、むしろ最も苛烈で深刻な相克、いわば〈存在〉と〈無〉の火花を散らす凄まじい衝突が起きるのだ、と考えねばならない。

 そして、翻ってまたまたわれわれは、いかなる質料のうちにも決して宿ることのない形相、あるいは決して宿りえぬような形相、純粋形相とよぶべき形相をも想定することができる。
 しかし、この想定は、形相をイデア的な自体性に差し戻すプラトン的観念論とは別の方位を目指している想定である。
 すなわち、この場合でも、純粋質料についての想定(例えばレヴィナスのイポスターズ論を想起せよ)と全く同じように、その質料なき純粋形相をそれにもかかわらずそのように成り立たせている質料的なものを、われわれはなお、それを思念のなかに召喚する際に必然的に要請せざるを得ないからである。

 何故、純粋形相は思念のなかへと到来するのか?
 そして、それは質料ではないとすれば、それとは似て非なるいかなるものから出来ているのか?



XV 風の痕跡


    

 高橋順一は、『始源のトポス』(エスエル出版会1986)のなかで、同一性の成立それ自体のうちに、不可避的にそれを抉るような、同一性には還元できない〈無〉への「媒介」の「始源的異化」の痕跡が孕まれてしまっていることを指摘している。
 これはわれわれの文脈でいう、風の風媒の漂流=彷徨とそれが破壊触発する存在論的災厄の火傷に該当するものである。

 高橋のいう〈媒介〉は、通常のヘーゲル主義がいうような止揚された同一性へと媒介するような媒介でもなければ、何らかの身元の割れた同一者の自己に遡及できるような媒介でもない。
 ヘーゲル主義の場合、媒介は他への媒介といわれるけれども、それは同一性へと回収可能な媒介であって、結局のところ自己への媒介を意味するに過ぎない。媒介は他を止揚することである。これは止揚的媒介であり、要するに媒介=同一性(同質性)なのである。
 しかし、高橋は、〈同〉に止揚不可能な異他性ないし異質性からの媒介について語ろうとしている。それは他〈への〉媒介ではなくて、他〈からの〉触発的媒介であるといっていい。
 自己または〈同〉は、この根源的他性を同化=止揚することはできない。おそらくただ排除することができるだけだ。しかしむしろ逆に自己または〈同〉の方こそが、根源的他性から排除され切り離されるという受動性によらなければ成立しえないのである。

 根源的なパッシヴィテ、受動性・受難性・情態性というべきパトスの様態がどうしても存在することの基底には、風の掻爬の痕跡として、或いは、燔祭の黒き精神外傷として、烙印のように焼きついている。

 これはどういうことか。――存在なき受動性としてのパッセが、通過とも過去とも受動とも消極ともいいがたいパトスとして、すなわち〈純粋様相〉としか言い得ないような何かが、時間と存在に先立つ出来事としてある、ということだ。
 おそらくそれは、出来事それ自身における根源的な分極化の運動を暗示している。

 パトスとトポスへの分極。一方は消極してゆき、もう一方は積極してゆくような陰陽の切断だ。それは陰極(−)と陽極(+)へと〈道〉という風の通行が起きて、ゼロの太極が生成し分化する運動であるといってよい。

 わたしは思わぬところで中国古代哲学のヴィジョンの驚くべき鋭さを再発見することになってしまった。
 しかし、このことは些かも「東洋回帰」などという、わたしが最も軽蔑しまた警戒するあの蒙昧主義を意味するものではない。わたしは東西の分裂を統合しつつ異化的に〈今ここ〉〈この私〉において創造しているからである。むしろ、このように語ることによって、東洋の曖昧で愚かな形而上学の徹底的な批判が開始するのだ。わたしは東洋の精神的独自性だの文化的優位性だのといった世迷いごとを如何にも言いたげにしているみにくい思想の顔が嫌いだ。
 わたしは日本人でもユダヤ人でもギリシア人でも中国人でもインド人でもアラブ人でもヨーロッパ人でもアメリカ人でもありたくない。そんな奴らなどくたばれ!と思っているのである。
 むしろわたしは地球人であり、そして、そうであるよりもむしろ一個の〈宇宙人〉である。
 そして、この〈宇宙人〉こそ、わたしが見出すべき〈この私〉の究極の姿でなければならない。

 何故というに、宇宙的(universal)であるとはとりもなおさず普遍的であるということを意味するからであり、そしてこの宇宙性=普遍性のただなかにおいてしか、単独的な〈この私〉は見出され得ないが故に。

 単独的な実存〈この私〉を柄谷行人は社会性としての普遍性において捉えようとした。だが、それは片手落ちでありまた不徹底であるとわたしは考える。

 普遍性は社会性などよりもはるかに貧しい宇宙性のなかにこそ見いだされねばならない。宇宙性とはもはや独我論すら成り立ち得ないような徹底的な孤独、ついには自己同一性の自己崩壊にまで到るような厳格な破壊の孤独の中に見出されなければ全く意味がないし、そして単に空虚なだけだからだ。
 宇宙の中に身を置くことは端的に破滅である。しかし破滅しないものにどうして〈超人〉を、すなわち、一個の単純な人間を見出すことができるというのか。

 厳密にニーチェ的な意味における〈超人〉とはこの〈宇宙人〉としての〈この私〉のことである。
 わたしは、全てが覆り滅び去った後、再び舞い戻ってきてしまった軸の時代の思想家として、己れをこの宇宙の極としての〈この私〉の上に回転させなければならない。
 美しいものは星座である。わたしは双眸を大きく瞠り、大宇宙の荘厳のなかで最初に思考したであろうシュメールのマギの末裔としてのみ己れをアイデンティファイするであろう。

 しかし、この〈この私〉は、ただ宇宙のなかにそれを見出したという状態だけであるなら、それは未だに死んでいる。そして大宇宙は暗く、天に一個の星座も無い。



XW 風の炎上




 差異――むしろ爆発的な、核爆弾のような差異としての差異がある。破壊触発の極限において、差異は同一性の破壊であるばかりか、差異であることそのものへの破壊ですらあることだろう。
 何もかもをぶち壊しにするような純粋な差異は、恐らく〈出来事〉としかいえない。それは炸裂し、吹っ飛んでしまう。後には痕跡というより地をえぐる爪痕のように凄まじい重症しか残らない。ただブラックホールしか残さないような最も野蛮で凶変的な差異というものがある。

 それは野獣的だ。脳髄を破壊し、理性の箍を吹き飛ばしてしまう〈叫び〉としてしかありえないような〈ありえない差異〉というのがある。

 この最大級の差異のことをブランショは〈災厄〉と呼んでいる。わたしの考えでは、この〈災厄〉はレヴィナスが自分の〈イリヤ〉に引き寄せてそれと同一視しているような程度のものと恐らく違っている。

 ブランショが〈災厄〉と呼んだもの、それはレヴィナスの〈イリヤ〉が未だ〈恐怖〉の体験だったのに対し、その〈恐怖〉をすら不可能にしてしまうような何かなのではないか。つまりイリヤがアウシュヴィッツでありサリンであるとしたら、ブランショの(災厄)はヒロシマでありネバダでありハルマゲドンであり怒りの神なのだ。

 〈災厄〉はもはや〈不在〉とはいえない。逆に〈イリヤ〉はまさしく〈不在〉だったのだが、〈災厄〉は現前しないとしても不在ではないような暴露性であり被爆性なのだ。ブランショの思考は被爆者の思考、それも閃光と共に蒸発させられ、恐怖を覚えることすらなく消されてしまった被爆者のなかの被爆者の思考だ。

 だからこそ、逆に〈災厄〉にこそ〈イリヤ〉の恐怖の迷宮を、この恐怖の大王の黒き鉄の牢獄を打ち破る最後の希望をわたしは託そう。〈災厄〉、それは〈奇蹟〉であるのだから。
 それはレヴィナスの神を廃棄するような神であり、律法を完全に爆破して星空に返してしまうような神の〈神の内なる位相転換〉なのである。

 もはや神が神ならざる神となるとき、われわれもまたわれわれならざるわれわれとなることが出来る。しかし、それが「有り得る」とか「可能である」といかいうのではないのだ。「出来る」とはもはや能力とはいえない超能力のようなものだが、「超能力」とそれをいうべきではない。
 それはむしろ〈放射能〉というべきもの、〈根源的能動性〉というべきもの、出来事としての出来事の洪水なのだ。

 風がそれをもたらす。というより、風がそれであるような風媒が既にしてそれなのだ。

 出来事は、超能力でも無能力でも能力でもありえない。それはまさにありえない力だ。放射能力であり、そして一層、不可能力ないし不可抗力としかいえないような魔法なのだ。

 おそらく災厄とはついには星のきらめきである。それは〈存在〉をすら凌駕する〈運命〉の美しさなのである。

―了―




【後記】「形而上学的〈風〉についての考察」は、ひとまずここで筆を置くかたちにて終わる。ベースになった原稿は1996年頃に書かれたものだ。9年後に読み返しつつ、それと格闘するようにして加筆・削除・訂正を行い、ここに初めて人目に晒すかたちとなった。

考察の部分部分には途切れや飛躍が目立つ。これは敢えてそうしたものである。わたしは自分自身の思考を出来るだけ切断しておかなければならなかった。それでこのような、カマイタチに切り刻まれたような形のテクストとなった。

もちろん、わたしのなかで形而上学的〈風〉について考察するという課題はこれで終わった訳ではない。だが、この原稿の続編が書かれる事はもう二度とありえないだろう。せいぜい加筆訂正が行われることがあるとしても、この十四篇からなる断章集に新たな章が付け加わる事はない。

この考察は〈風〉の思考の始まりの場所にある。そしてその扉は永遠にこのままに〈風〉に向かって開け放たれたままにしておかねばならない。
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